2009年12月30日水曜日
12月25日 クリスマス
“ Merry Christmas!” 「メリークリスマス!」
そう言って、早朝から子どもたちが迎えてくれる。今日は1年に1度のクリスマス。この日をケニア人は盛大に盛り上げる。そんな日だからこそ、私も子どもたちの思い出に残る日にしたいと思った。
この日の午前中は牧師さんが来て、子どもたちにクリスマスの日におけるキリスト教の教えを伝える。子どもたちもいつもより真剣に話を聞く。そして、まずはクリスマスプレゼント第一弾としてクッキーとキャンディーが配られる。そんな大切なクッキーを持って子どもたちが私のところに来てくれる。
“ Mwalimu, shika.” 「先生、どうぞ」
そう言って、何人もの子どもたちが、たった3切れしかないビスケットの一つを私にくれた。いつもなら、すぐにポケットにいれて何回もビスケットをとったりするような子どもたちだ。しかし、こんな優しさも子どもたちは持っている。
さて午後になりいよいよ待ちに待ったごはんの時間。この日のごはんの内容は次の通り。
Mchele(ごはん)
Ndengu(デング豆)
Nyama(肉)
Embe(マンゴー)
Soda(ソーダ)
という内容。子どもたちは自然とテンションが上がっていた。おいしそうに食べる子どもたち。ここでも子どもたちは一人50グラムほどしかない小さな肉のかたまりを私にくれようとする。肉なんてほとんど食べることができなかった子どもたちだ。そんな子どもたちが笑顔で私に肉をくれようとするのは、うれしくて涙が出そうになる。
そして、午後になり子どもたちへのフェイスペインティングをはじめる。顔にそれぞれいろんな模様や絵を描いていく、ペインティング。クリスマスだからこそできる、活動の一つだ。絵具やパレット、筆を準備しいよいよスタート。これでも画家の血をひいているケニャイチローです。(親父が画家なので)正直、小学校や中学校の作品展では入選が最高で、本当に俺は親父の子どもなんだろうかと悩んだ時期もありましたが、芸術家ほど後継ぎが難しい職業はありません。早々とあきらめ、教師の道を歩んでいる私です。そんなことはどうでもいいですね。
さて何人もの子供たちにさまざまなペイントをしていきました。子どもたちにもパレットや筆を渡して、友達同士でペインティングをさせたりして、すごく笑った時間でした。こんなに笑ったのは、ここゲタスル更生院に来て初めてじゃないかというくらい笑いました。子どもたちも友達と顔を見合わせては、大爆笑してました。その中には “MVP” や “FBI”というような言葉を額に書いている子までいて、自由奔放な活動ができた時間だった。そして楽しい時間はあっというまに過ぎ、子どもたちのクリスマスは幕を閉じた。
子供たちにとって今までのクリスマスはどんなものだったんだろう?家でお祝いできる子もいれば、ストリートでゴミを拾っていた子もいるかもしれない。ただ少なくともこのゲタスル更生院で過ごしたクリスマスは思い出に残るんじゃないかな・・・そう思うと心も体もホカホカで、自然と笑みがこぼれた。もしケニア人の言うように本当に神様がいるのなら、子どもたちがこの先、誠実にまっすぐに生きていけますように。
メリークリスマス。
2009年12月29日火曜日
12月24日 クリスマスイブ
ケニアでは日本と違い、クリスマスイブはそんなに盛り上がったりしません。どちらかというと、この日の午前中には仕事を切り上げて、クリスマスの日(25日)のために食べ物を用意したり、プレゼントを用意したりする日のようです。この日はスーパーやお店は大忙し。そんなクリスマス準備の日です。
さて、ここゲタスル更生院でもクリスマスにむけてのイベントと準備が行われました。まずJICA婦人の会「サイディアーナ」の方々に来てもらって、一緒にレクリエーションをしたり、クリスマスの歌を歌ったりした。子どもたちは思わぬゲストに大興奮。楽しそうに活動したり、歌を歌ったりしてました。そして最後には婦人の方々手作りのキャロットケーキがみんなに配られ、おいしそうにケーキをほおばっていました。
次に午後から子どもたちと一緒に折り紙でペーパーチェーンを作った。次の日のクリスマスと新年に向けて、ダイニングをデコレーションした。またみんなで「Merry Christmas & A Happy New Year」という看板を作った。このようなイベントに対する準備は子どもも喜んで協力する。そして作り始めること3時間、見事にダイニングはクリスマス仕様にデコレート(飾り付け)された。
“ Merry Christmas!” 「メリークリスマス!」
そういった声があちらこちらから聞こえた。明日を迎えるのが待ちきれないように、子どもたちの笑顔がはじけていた。1年に一回の大きなイベント。おそらく私が担当するイベントの中で最も大きく、最後となるイベント。そんな素晴らしい明日になると確信して、更生院を後にした。
という私は、その夜子どもたちより一足早くクリスマスパーティをJICA職員さんと楽しむ。近くの日本食レストランでカラオケ。4時間飲んで、食べて、歌っての大盛り上がりのパーティでした。
2009年12月23日水曜日
12月16日 時代劇流れてほしいなあ。
“ Hei, Chin Chon Chan.” 「へい、チンチョンチャン」
“ Chinese!” 「中国人!」
“ Jackie Chen!” 「ジャッキーチェン!」
“ Jet Lee!” 「ジェットリー!」
などなど。また顔を見るなり、カンフーや空手の型をするケニア人もいたりする。彼らの固定観念の中には「アジア人=カンフー(空手)ができる」といったものがあるんだろう。カンフーと空手も違うのに、アジア人というだけでそのように見られる。
日本で言う昼のドラマ(昼ドラ)の時間にけっこうカンフー映画をケニアのテレビ局は放映している。それも俺が生まれて間もないころ、1980年代のものやそれ以前のものが多い。うちの更生学校の子どもたちをはじめ、ケニア人はこのカンフー映画が大好きだ。しかしせっかくの国際理解の場でありアジアのことを知る機会であるのに、ケニア人にとって日常でよく見るテレビのカンフー映画が唯一の国際理解なのである。なんとも悲しいことだ。
そんな大昔の番組を見て、今の日本や中国にはカンフーの使い手がたくさんいると思われたくない。かといって「カンフー映画」の代わりに「時代劇」が毎日放映されてもなあと思う。中国の昔を表しているカンフー映画の代わりに、日本の昔を表している時代劇。
時代劇をたくさん見て、やっぱりケニア人は日本人は現在も着物を着ている、武士は刀を持っている、ちょんまげであるって思うんだろうか。カンフーの代わりに、ちゃんばらごっこをしてくれるのなら、すごく可愛げがあるのに。おれも一緒になってちゃんばらごっこをするのに。
しかし、それでも時代劇が流れてほしいなあ。
“ Hei, Odaikansama!” 「へい、お代官様!」
“ Japanese!” 「日本人!」
“ Matsuken!” 「マツケン!」
“ Matsukata Hiroki!」 「松方弘樹!」
なーんてケニアで言われたら、同じからかわれても、ちょっとうれしくなるかもなあ。そんな淡い夢を描きながら、クロケンはがんばって生きてます。
2009年12月20日日曜日
12月9日 隊員総会&大使公邸食事会
また二日目には、個人の活動発表があったり、グループ活動発表やボランティア調整員の発表があったりと盛りだくさんである。今回はドミトリー近くのホテル「オリーブガーデン」で開催されたということもあり、大変スムーズに隊員総会が行われた。新しい隊次の人や短期ボランティア、シニアボランティアの方とも話す機会が多くあり、すごく充実していた。いつの間にか、古いほうの隊次になったんだなあと感慨深く思えた。
さて初日の隊員総会後、隊員全員で日本大使公邸のお食事会に出かけた。大使との話を目的というよりは、みんなそこに出てくる食事のほうがかなりの目的だったように思う。大豪邸に着き、玄関で大使と奥様が迎えてくれる。この時点で、もう緊張である。そしてミニバーでビールをいただき、話をしながら庭をまわる。と庭といっても半端ない大きさなんです。東京ドームでいうと・・・てか東京ドームに行ったことがないからわかりませんが。
そして大きな部屋に入り、大使のお言葉、JICAケニア所長のお言葉などがあり、そしていよいよ食事。いやいや、ケニアに来てこんなごちそうは見たことがないというようなごちそう。
寿司(マグロ、サケ、タイ、ちらしずしなど) 約15こ、ちらしずし特盛り
てんぷら(海老、パプリカ、茄子など) 海老10尾 野菜少し
焼肉(牛ステーキ、鶏肉など) 牛ステーキ、鶏肉特盛り
カレーライス 食べてない
タイのから揚げ(天ぷら?) 3切れ
サラダ盛り合わせ 食べてない
漬物やおひたし、胡麻和えなど 少し
デザート(ケーキ、抹茶ババロア・ミルクと小豆のババロア・白玉だんごなど)
甘いものが大好きなのでたくさん
ていうか、お酒を飲むのももったいなくて、食べ物ばかり食べてました。隊員全員がかなりテンションが上がってたような気がします。隊員のほとんどは食事が始まって、大使や奥様と話をしてないのではないだろうか・・・。私は最後のほうに大使の近くの席に座り、ちゃっかり話をしました。その時にはお腹がいっぱい過ぎて、もう何も食べることができなくなってましたが。すごく気さくな方で、笑顔で話を聞いてくださった大使と奥様。最後も玄関まで見送ってくれて、大変恐縮でした。心もお腹もいっぱいになって、その後タクシーでカベテへ帰りました。次の日には韓国焼肉だったので、また体重が・・・。
2009年12月18日金曜日
勇気?それとも短気?
という言葉が新渡戸稲造が書いた「武士道」という本にある。これを肯定的に言い直すと、「勇気とは正しいことをすることである」となる。
しかし、ここケニアでは正しいと思うことをする場合、あまり良いように思われないように感じる。
「事なかれ主義」という言葉もあるが、ケニア人のほとんどはいたってそういう考え方なのだろうか?そもそも気にしない性格なのだろうか?それともそういう文化なのだろうか?
たとえば、
酔っぱらいが学校に入ってきて子どもや女性の先生たちにちょっかいをかけていたら、あなたならど うする?
同僚が自家用車を学校の子供に洗わせていたら、あなたならどうする?
同僚が仕事中に酒を飲んで酔った勢いで子どもを殴っていたら、あなたならどうする?
大事な会議の最中に同僚が新聞を読んでいたら、あなたならどうする?
子どもを使って、私のオフィスから寄付された靴を自分のものにしようとする同僚がいたら、あなたならどうする?
私はすべての事例で、その人たちと話し合いをし、ときにはケンカをしたりしたときもあった。しかし、最終的に言われる答えはいつもこう。
“ This is Africa.” 「ここはアフリカだから。」
“ This is Kenya.” 「ここはケニアだから。」
“ Japan is a developed country. Kenya is a developing country.”
「日本は先進国だけど、ケニアは途上国だから。」
そして文化の違う私は、こういわれている。
“ Ken hajui hapa ni Kenya.” 「ケンはここがケニアだってことをわかってない。」
同僚たちのお決まりのセリフ。そのたびに心を折られていた。そのたび何が正しくて、何が正しくないのかを本気で悩む。正直、何度日本に帰りたいと思ったことか・・・。初めの赴任時に比べると、めっきり笑顔も減ったように思う。こんな男が子どもたちを笑顔になんてできるわけがないわな。
1年半がたって慣れた部分とどうしても慣れない部分がある。そのすべてをケニアだからって割り切ってしまったら楽なんだろうなあ。今回は事例の一番上の酔っぱらいが学校に入ってきたことで、またイライラがたまってしまった。短気なんだろうな、きっと。何があっても手は出してはいけないと思います。それだけは我慢しよう。
2009年12月17日木曜日
12月8日(補足) 実は、これが・・・
見てもらったらわかるように、ほとんど中学校で習った文法や単語でできています。中学生の皆さん、副大統領の前で発表するスピーチでさえ、中学校の既習英語でできるので英語の勉強がんばってくださいね。
しかし中学校で英語を習ってた頃、まさか自分が一国の副大統領の前で英語のスピーチをするなんて思わなかったなあ・・・。次回のスピーチは新しい職場となる中学校で、自己紹介のスピーチだな。
My pleasure to meet you, Mr. Vice president.
My name is Kenichiro Kuromyo. I’m a member of Jica Volunteers.
I came here Kenya in June, 2008. When I was in Japan, I was teaching English to Japanese students for 5 years. Then I was also a classteacher.
When I was in secondary school, My dream was to be a teacher and to come to African countries to teach Children. And I wanted to work as a JICA volunteer. 3 years ago, I visited my friend in Paraguay, one of South American countries. She was also a JICA volunteer. She enjoyed her job and made children laugh and smile. Then I decided to be a JICA volunteer and come to African country. So, Now I’m very happy to be here.
Now, I’m working at Getathuru Rehabilitation School in Lower-Kabete.
There are street boys, orphans and children who reject to go to school. They are from ten years old to eighteen.
This school is also called Reception Center. The boys spend 3 months to be classified to next rehabilitation school. And they spend 3 years totally.
My job is teaching them Physical Education and arts and craft. I tell them the importance of friendship and teamwork through Physical Education Class. And they get motivation of making something through arts and craft, for example drawing, metal art and so on.
First it was really hard for me to teach them, because they didn’t listen to me, didn’t look at me, and didn’t study hard. In addition, my communication skills of Swahili was very poor. But my colleague helped me and advised me how to communicate and teach them. I think that it’s important to help each other, Kenyans and Japanese. That is “Harambee” and “Tuko pamoja”.
I am here not only to volunteer and help Kenyan, but also to be good friends with Kenyans, to know each other and to help each other.
Now, I enjoy my job. I think that my job is to make them laugh and smile.
I have just 3 months to stay here. It’s no t so long, but I want to do my best, to stand by children and make their smile.
Thank you for listening.
2009年12月15日火曜日
12月8日 副大統領訪問
この日、ナイロビのホテルで行われる副大統領訪問。そこでボランティア代表としてスピーチをすることになっており、久々に話す英語のスピーチの前に少し緊張していた。原稿を何度も読み直し、発音などのチェックをする。けど、大統領でなくて副大統領だからといったことで、変な落ち着きさえあった。
そして福大統領が姿を見せる。笑顔で部屋に入ってきて、背が低く単なるケニア人のおっちゃんに思えた。それがまた緊張を解きほぐしてくれた。そしていよいよ、スピーチの時がやってきた。子どもたちが描いた絵やメタルアートとして作った眼鏡も一緒に持っていき、スピーチの途中で副大統領に手渡した。そうすると、副大統領が子ども手作りの眼鏡をかけてくれたのだ。これがなんともうれしかった。
さてスピーチの内容は下記の通りです。日本語訳はつけてませんが、よかったらご覧ください。
My pleasure to meet you. Hon. The Vice President.
My name is Kenichiro Kuromyo, and I am a JICA volunteer. I came to Kenya in June 2008. Before I came to Kenya, I was teaching English to Japanese students for 5 years.
As a student in secondary school, my dream was to become a teacher in Africa as a JICA volunteer. I like teaching children and I was inspired by a friend whom I visited 3 years ago in Paraguay. My friend enjoyed teaching and made children laugh and smile. From then on I decided to be a JICA volunteer in Africa. So, here I am and happy to be here.
I teach at Getathuru Rehabilitation School in Lower Kabete, a school which houses street boys, orphans and children whom to some reason refuse to go to school. The boys age between ten and eighteen years old. As a reception centre the boys spend three months before joining a fully fledged Rehabilitation school for three years.
My job is to teach them physical education and arts and crafts. In class, I tell them the importance of friendship and teamwork through physical education class. By so doing, the boys become motivated and creative in arts and crafts. Some have become very good in metal art.
At first is was very difficult for me to teach them because they could not listen, could not look at me and they could not work hard. And in addition my skill in Swahili at that time was poor. But I got a lot of support and encouragement from colleagues which are very important to a teacher. In Kenyan perspective that is ‘’HARAMBEE’’ and ‘’TUKO PAMOJA’’
Here in Kenya I am not only a volunteer to help Kenya, but a good friend to Kenyans. Through sharing our cultures we have become helpful to each other and known each other better.
I haven’t achieved my goal. ‘’I MAKE THE CHILDREN I TEACH LAUGH AND SMILE’’
I have 3 months left to go back to Japan; it is a very short time but will do my best and stand up by my children and make them smile.
Thank you for listening.
2009年12月14日月曜日
12月4日 チキンラーメン
って、ついつい口ずさんでしまうこの頃。日本ではほとんど食べなかったインスタントラーメンも、ここケニアにいると無性に食べたくなる。カップラーメン・どんべえ・UFO・チキンラーメンなど。さて、この誰もが知ってるインスタントラーメンを作っている会社をみなさんはご存じか。そう、あの有名な「日清」(正式名:日清食品ホールディングス株式会社)である。
この日、チキンラーメンで知られる日清から、うちのゲタスル更生院と向かいにあるカベテ更生院の子どもたちに無料でチキンラーメンを提供してもらえた。ここ日清は、創立50周年を記念して積極的に社会貢献活動をしている。ここケニアでも、貧困などから食事が十分に食べられない子どもたちに、学校給食として無料でチキンラーメンを配布しているのだ。
もちろん、ここケニアで食べられるチキンラーメンなので、ケニアで作られる。ナイロビ郊外にあるジョモケニャッタ大学の一角に製造研究所を作り、そこで製造している。また日本からチキンラーメン仕様にデザインされたトラックを輸入しており、その中でお湯を沸かしたりできるため、水がないもしくは水が汚れているところに行っても調理することができるのだ。
そんな日新がカベテ更生院に来て、チキンラーメンを作ってくれた。はじめに子どもたちはチキンラーメンの製造の過程とケニアでの活動のビデオ2本を見て、興味を持ち始める。しかしまだこれがどんな食べ物なのか理解していないようだ。そしてビデオが終わって、いよいよ試食。
嬉しそうというより、不思議そうにチキンラーメンの入ったお椀をもらい席に着く。
“Asante・・・” 「ありがとう・・・」
といつもより小さい声でのお礼。きっとどんな味なのか全く想像がつかないのであろう。そして普段のように豪快には食べず、少しずつ味を確認するかのように食べ始める。うんともすんとも言わず黙々と食べる。子どもたちにとって人生はじめてのチキンラーメンはどんな味がしたんだろう・・・?
と片付けのときに気づいたが、ほとんどの子が残さずすべて食べていた。この結果だけで満足な私。日ごろ、ほとんどウガリと豆とトウモロコシしか食べることのできない子どもたちにとって、貴重な体験だっただろう。昔、こんなチキンラーメンをお湯もかけず、バリバリ食べてた自分がちょっと恥ずかしくなった。ああ、生卵を入れてチキンラーメン食べてえなあ。
2009年12月7日月曜日
11月30日 我が家のような更生院
“ Nimerudi. Habari za siku nyingi?” 「ただいま、久し振り。」
そういって同僚にあいさつ。同僚も笑顔で迎えてくれる。子どもたちも私の姿をみるなり、大歓声と拍手、そして真っすぐな笑顔で迎えてくれる。
「ああ、家に帰ってきた。」
そういう嬉しさでいっぱいになる。一人ひとりと握手を交わし、タンザニアでの思い出話をしたり、更生院の様子など聞いたりする。新しく来て知らない子どもたちも多くなっている。そんな子どもたちにスワヒリ語で話しかけて、びっくりさせる(東洋人がスワヒリ語を話すから)。そんな驚かすことも日課となっていて、当たり前の日常が心地よい。
授業でも相変わらず、態度の悪い生徒に愛のげんこつ。授業を中断して、得意の雑談が始めて、子どもたちとコミュニケーションをとる。そんなこともなんだかこの日は新鮮だ。そんな子どもたちにこの日、折り紙の飛行機を折らせ、一緒に飛行機を飛ばす。遊びもこの子たちには大事な時間の一つ。
残りの期間3ヶ月半はなるべくこの更生院にいようと思う。クリスマスも正月も。クリスマスに心ときめかせるような状況ではないし、正月といっても家におせちもなければ、雑煮もない。「おかえり」と言ってくれる妻の代わりに、台所に住みついた巨大クモと肌色のトカゲが迎えてくれる我が家。だったら、我が家的な更生院にずっといるのも悪くない。
というわけで、そんなクリスマスと正月をここゲタスル更生院で送ります。そんなさびしそうな私に同情される方は、クリスマスカード又は年賀状を待っていますので送ってください。よろしくお願いします。
2009年12月6日日曜日
11月29日 ハートにホームラン!
「ハートに○○!」
ここの「○○」の部分にいろいろな名称が入る。
「ハートにシュート!」(サッカー)
「ハートにホームラン!」(野球)
「ハートにアタック!」(バレーボール)
「ハートにポートボール!」(ポートボール)など
そして今回は同じ青少年活動という職種でワムム更生院で活動する「新さん」の呼びかけのもと、ワムム更生院で野球大会(ハートにホームラン!)が行われた。朝早くからドミトリー初のマタツに乗り、ワムム更生院へ。ナイロビから約2時間半のところにあるワムム更生院は私の活動先ゲタスル更生院の子が3ヵ月生活したのちやってくる、国内6か所ある更生院の一つだ。なので、生徒のほとんどを知っている。そんな子どもたちの成長を見ることも今回の参加の目的の一つだ。
そしてワムム更生院に到着。たくさんの子どもたちが歓迎をしてくれる。子どもたちも思わぬ来客になんだか嬉しそうだ。そんな温かい歓迎を受ける中、試合の準備開始。今回は「ワムム更生院生徒 VS JOCV(ボランティア)」というカードだ。新さんが教えてきた野球の集大成と言うべくして実現した、この試合。どちらも意地と意地とのぶつかり合いだ。キャッチボールやバッティング練習をして、いよいよプレーボール。
初回、JOCVの攻撃で、子どもたちの守備のミスをついて幸先よく3点を先制。その裏JOCV先発の「じゅんや」が素晴らしい投球で、3者連続三振の快投。勢いに乗る。3回裏にもワムムがなんとか1点を返すも、4回表JOCVがすかさず、一点を追加。一進一退の攻防が進む。
そして試合が動いたのは4回裏。交代したJOCVの投手をワムムがせめて一気に4点をとる。ここで逆転に成功。JOCVは歳のせいか、炎天下の状況に疲れがどんどんと出てくる。その次の会の裏もワムムが3点を追加。8対4と大きくリードする。
最終回7回、この回JOCV最後の猛攻を見せるも1点を返すのが精いっぱい。そのまま振り切られて8対5でJOCVが負けてしまった。しかし子どもたちは満足そうな笑顔でいっぱいだった。ちなみに私は途中から6番キャッチャーで出場して、1打数0安打。平凡なショートフライに終わりました。小学校のときにソフトボールでキャッチャーをしていて、17年ぶりにかぶるマスク。ソフトボールとちがい、上から投げる早い速球に少々ビビりましたが、大きな怪我をすることなく、無事プレイできました。
子どもたちの中には背が伸びていたり、太ったり、声変わりをしていたり、ヒゲが少し濃くなっていたり、その成長が見えてなんだか不思議な感じだった。卒業した子どもたちに再開する心境と少し似てるかな。そんな子どもたちに見送られてこの日のイベントは幕を閉じた。
2009年12月5日土曜日
タンザニア旅行記 ダル・エス・サラーム
この日はタンザニアの同期と合流後、高級そうなイタリアンレストランへと向かいました。ピザやサラダ、魚のステーキ、ラザニア、そしてデザート。ほんとアフリカ隊員とは思えない食事ですよね。けど、これを毎日食べてるわけではないので、誤解しないでください。そしてやっぱりビールがうまいんです。この旅行中ほぼ毎日飲んでますが、旅行に来たときぐらい飲んでもいいですよね。一人で飲むビールより、やっぱり仲間と飲むビールってほんまにうまいんです。いやあ最高でした。きっとまた体重増えてんだろうなあ。
次の日の朝、ホテル近くのティンガティンガ村に行く。このティンガティンガ村には動物の絵を中心に書く絵描きがいて、東アフリカ独特の絵を描いている。値段も安いものから高いものまでさまざまで、こういう絵に興味のある私はその一つひとつの絵に目を奪われた。やはりこれも画家の血なのかなあ。そして値段の安い絵を買う。ちょうど表札のような大きさのものがあり、名前も書いてくれるということでこの小さな絵を5枚ほど買いました。日本への素敵なお土産も買えて、次なる目的地へ。
次は同期ほっしーの配属先、職業訓練学校VETAへと向かった。そこで自動車整備を教えているほっしーの案内のもと、さまざまな教室や施設を見せてもらう。あまりの大きさにびっくりしたぐらいだ。そしてここで、9日間一緒にいたザンビア隊のともちゃんとサブとお別れ。次回は日本で会おうという約束をし、二人は空港へと向かった。
そして私はもう一人のダル隊員Bi.のりこの活動先を見に、近くの養護学校へと行った。そこで振付付きの歌を教えたり、ハーモニカを教えたり、なんとも楽しそうに活動をしていた。それを受けている子どもたちも、本当にうれしそうに笑っていた。私も一曲、スワヒリ語版の「大きな栗の木の下で」を子どもたちに教えて、一緒に楽しく歌えた。
とふと涙ぐんだ。その子たちのあどけない笑顔に。それを作り出しているBi.のりこの活動に。最近の私は更生院の子どもたちに対し、叱ってばっかりでこんな笑顔を作り出すことをすっかり忘れていた。自分自身も笑顔がないことを気付いていたのに。私も更生院の子どもも、もう一度ここの子どもたちみたく、心から笑うってことをしていかなきゃ。と思った。
そんなタンザニア旅行も、死ぬ思いあり、笑いあり、涙ありの最高の思い出となった。また感じた協力隊の仲間との絆、改めて感じる自分の活動への想いなど、考える場面の多い旅行にもなってありがたかった。充電もしっかりできたし、また更生院に帰って新たな気持ちで子どもたちと接しよう。
2009年12月3日木曜日
タンザニア旅行記 ザンジバル
まずはこの日(23日・七日目)到着してからすぐにホテルに行き、重い荷物を置く。そして近くのローカルフードの店で昼食(ピラウとタコの煮物)をとり、そしてストーンタウン見学に出かける。イスラム建築とキリスト建築が点在する、このストーンタウンは独特な雰囲気をかもしだしている。市場の熱気やあちらこちらで見られる屋台の数々。それぞれが見たこともない光景で、その状況の中にいることが新鮮だった。
オールドアラブ砦に始まり、驚嘆の家、市場や魚の競りを見学し、道端で売っているコーヒーで一休み。とても小さなコップで飲むコーヒーを一気に飲まず、少しずつ大切に飲み、ストーンタウン独特の雰囲気を楽しむ。こういった地元の人とのひとときもまた嬉しい。夕方になり、ザンジバル同期3人と一緒に驚嘆の家の屋台でシーフードを満喫する。この串焼きしたタコやイカ、エビや魚などと一緒に飲むビールは格別だろうが、アルコールは禁止。イスラム教徒が多いこのザンジバルでは、公にお酒を飲むことはできない。公園のど真ん中でビールなんてもってのほかだ。けど、久々に食べるシーフードに舌鼓。外で食べる食事はうまいんです。予定していた2時間はあっという間に過ぎ、ホテルに帰る。
次の日、ホテルの横にある大聖堂を見学し、奴隷市場となっていた場所をめぐる。ここザンジバルは奴隷貿易の中心という負の歴史も持っており、ザンジバルに来たら見逃せないところだと思う。そしてタクシーにゆられて次なる目的地へ。
次の目的地はザンジバル東にあるパジェという村(町?)。ここにはきれいなビーチがたくさんあり、その中でも日本人女性が経営しているホテル、パラダイス・ビーチ・バンガローズにお邪魔した。経営している三浦さんは気さくな方で、すごく歓迎してくれた。そこに広がる透明な海と青い空、そして白い砂浜。あまりのきれいさに、すぐに服を脱いで、砂浜を走り始める。足の筋肉痛も忘れるほど、そのきれいさに興奮して笑顔がこぼれる。
「波はジェットコースター♪」
なんて、キンキの歌を歌いながら他のお客さんのいない貸切ビーチを走り抜ける。いやあ本当に最高でした。そしてお待ちかね昼食の時間。こんな素敵なビーチでお寿司と刺身盛り合わせ、キャベツの味噌汁、そしておにぎりをいただきました。それとビールがまたうまいんです。反則です、日本食とビールときれいな海。ってあまり書きすぎると、妻に連れて行けと言われそうなので、ここまでにしておきます・・・。
そしてパジェの滞在時間もあっという間に過ぎ、タクシーで空港へ。ここザンジバルはもう一度来たいと思うほど、きれいなステキな町でした。こんな場所で協力隊って、かなりうらやましい。そして一行は次なる目的地へ向かいます。
2009年12月2日水曜日
タンザニア旅行記 モシの町
夕方頃、Bwana金藤の配属先を見学する。その警察学校から見えるキリマンジャロもまた素晴らしく、夕日に染まる山がすごく感動的だった。野外にある空手場や室内練習場、また食堂や生徒たちの住むドミトリーまで見せてもらった。食道とドミトリーは私の活動先の更生院とよく似ていて、せまい空間に二段ベッドが隙間なく置かれてある状況はまったく同じであった。
んだろう。またザンジバルピザもおいしくて、せっかく登山で落とした体重もすぐにリバウンドしました。しかし疲れた体にビールは効きます。あっという間に顔は真っ赤、目は充血、頭はフラフラになる。気分よく語りあったり、一緒にパソコンでお笑い番組を見たりと楽しい時間を過ごしました。
そして午前2時過ぎ就寝。次の日、空港からザンジバルへ出発。飛行機の中でも爆睡して、次なる目的地ザンジバルへと向かった。
2009年12月1日火曜日
タンザニア旅行記 キリマンジャロ登山②
それにしても景色は最高だ。キリマンジャロの山がすごく近くに見え、それをずっと眺めているだけでも、感動的だ。険しい山の雰囲気と雪をかぶって少し柔らかな雰囲気と、なかなか言葉では言い表せない。どんどん冷たくなる風に体力を奪われながら、その景色を見ながら一歩ずつ進んでいく。そして最後の標高4700のキボハットに到着。
この時点で、5人のメンバーのうち、私を含め4人が高山病や体力低下で苦しむ。ついてすぐに寝込んでしまった新井の親父、体調が急に悪くなったサブ、俺も高山病の兆候に苦しみながら、少しでも高度順応しようと休むことなく散歩を始める。そして目の前に広がる大きなキリマンジャロを見上げる。
「でけえな・・・」
そう思い武者ぶるいを感じる。こんなとんでもない山に挑戦しようとしてるんだ・・・と弱い心が顔を出し始める。それぐらい、とんでもない山なんです、このキリマンジャロ。 この日、食欲もほとんどなくスープを無理やり流し込み、19時過ぎに就寝。真夜中のファイナルアタックのため体力を回復しようとするが、あまりの寒さと高山病で一睡もできなかった。
そしてその日の23時、準備を始める。真夜中0時から始まるファイナルアタックのための準備にとりかかる。防寒のために何枚も服やソックスを重ね着して、背中とお腹にはホッカイロ、準備万端でいよいよ最後の登山がスタートした。
高山病対策のため、本当にゆっくりゆっくり登っていく。今までにないくらい急な山道に足をとられながら、進んでいく。しかし5000メートルを超えてから異変に気づく。呼吸が急に苦しくなり、頭痛と吐き気に襲われる。そして意識もはっきりしてるかどうかもわからないような状況になる。ただ一気に弱い気持ちが心の中いっぱいになる・・・。 その朦朧とする意識の中で、唯一覚えていること、それは何度も妻に言われた言葉。
「絶対、無理はしないで」
その言葉と俺の登りたいという気持ちが心の中で闘っているのがわかるのだが、5200メートル付近で、一つの決心をした。
「新井さん、俺降ります。」
と前へ行く新井さんに告げた。私の出した結果、それは下山することだった。ギルマンズポイントから見える最高の日の出、約20年後にはなくなるかもしれない最高峰ウフルピークに広がる氷河、いやそれよりも人生の中で一番の達成感、そのすべてを投げ出してたどり着いた結論、それが下山だった。
悔しさをかみ殺して、サブガイドとゆっくり下山し、キボハットへ戻った。そして、無理をした体をいたわるかのように、熟睡。トイレに行くこともコンタクトをはずすこともできず、深い眠りについた。
朝になり、登頂した二人が最高峰ウフルピークから戻ってきた。二人の最高の笑顔に正直素直に喜ぶことはできなかったが、なんとか笑顔で迎える。この時点ではまだまだ、かなりの悔しさが残っていた。結局メンバー5人中2人が登頂に成功。この数字だけでもキリマンジャロ登山が困難だってことがわかる。
その日の朝(21日・五日目)、そのまま下山が始まり、ホロンボハットまで降りる。そこで宿泊するのだが、ここで私の高山病が一気にヒートアップ。ほとんどごはんを食べることもできず、ただただ横になって休むだけという状況に陥る。この日が一番つらかったな・・・。 次の日の朝(22日・六日目)、雲海の中からゆっくりと朝日が顔を出す。その優しい朝日の光がすごくすがすがしく、うれしさでいっぱいになった。そしてゲートまで下山。朝はもうガタガタ、筋肉痛で普通に歩くこともできなかったけど、それでも気持ちはかなり満足感でいっぱいで、自然と笑顔がこぼれていた。そんなキリマンジャロ登山だが、もう一回チャレンジしたいかというと、もう絶対挑戦したくない。それぐらいつらく、大変だった。次は地元の鷲羽山か由加山に挑戦しようと思うこのごろ。そんなキリマンジャロ登山、登頂はできなかったけど、素晴らしい体験ができたと胸をはりたい。
2009年11月30日月曜日
タンザニア旅行記 キリマンジャロ登山①
17日・初日、登山前日であったこの日はキリマンジャロ空港からモシの町入り。同期隊員Bwana 金藤の紹介で登山レンタルグッズ屋へと行く。登山初心者の私は店員さんのすすめで、ほぼすべての道具をレンタルする。見たこともないぐらいのごつい登山靴や寝袋、スキーウェアよりもごつい防寒具、スティックやヘッドライト、またサングラスまで。すべて合わせて75ドルほどしたが、その装備に自然と登れそうな気になる。
その後、喫茶店に入り、本場のキリマンジャロコーヒーを飲み、キリマンジャロビールで久々の同期との再会に乾杯。登山前日にもかかわらず、飲みまくりました。ホテルでは暑さと蚊の声であまり眠れず、そのまま朝を迎えることに。
18日・二日目、この日から仲間4人との4泊5日の長いキリマンジャロ登山がはじまった。また私たちのメンバー5人に加え、ガイド・サブガイド・コック・ウェイター・ポーター(荷物や食事を持って行く人)17人、合計22人のかなり大きいパーティ。この多さに少しびっくりしながら、はやる気持ちを抑えていた。まず登山口で名前を登録し、準備体操をしていよいよスタート。まず木や草が生い茂るジャングル地帯を歩く。自然がたくさんあって、空気も多いのはわかっているはいるのだが、びびりな私は初日からゆっくりとした深呼吸をしながら、ゆっくりゆっくり登って行った。
この日の昼ごはんは油たっぷりのハンバーガーとフライドチキン、そしてマフィンケーキなど・・・。まったく登山のことを考えていないメニューに仲間4人とぶつぶつ文句を言いながら食べた。肉好きなマングースやカラスのお客さんを横目に昼ごはんを終わらせ、再出発。「ハイキングコースだ」と言う、チーム最年長・新井の親父のセリフに、同い年トモちゃんと反論しながら、登っていく。そして一日目の宿泊場所・標高2700のマンダラハットに到着。まだまだ元気なチーム最年少・カツーンと同じ岡山県出身サブ。俺以外のメンバーはまだまだ余裕があるみたいだ。俺は早くも弱音をはいていたなあ、このとき。
19日・三日目、朝早くからスタート。今度の目指す場所は標高3700のホロンボハット。日本の富士山と同じくらいの高さかな。ジャングル地帯から少しずつ草や木が小さくなり、遠くの景色が見えるようになる。また雲も自分たちのいる場所より低く、雲海を眺めながら歩いて行った。うさぎさんチームの3人はカメさんチームのトモちゃんと私を置いて、どんどん先に進む。マイペースなカメさんはゆっくりと歩いて行く。まあ高山病も怖かったし、少しずつ高地順応したかったからね。カメレオンも出てきて、歓迎をしてくれる。
そして突然降りだした雨に打たれながら、ホロンボハットに到着。この時点で頭は少しボーとして、吐き気が少しずつ出てくる。少し高山病にかかってしまうが、まだ食欲があったこの日。しかしあまりの寒さになかなかメンバー5人寝ることができず、山の洗礼を受ける。
2009年11月28日土曜日
11月25日 誕生日おめでとう
今もこんなに好きでいるのに 言葉にできない
君のくれた日々が積み重なり 過ぎ去った日々二人歩いた『軌跡』
僕らの出逢いがもし偶然ならば? 運命ならば?
君に巡り合えた それって『奇跡』
二人寄り添って歩いて 永久の愛の形にして
いつまでも君の横で 笑っていたくて
アリガトウや Ah 愛してるじゃまだ足りないけど
せめて言わせて 「幸せです」と
(GReeeeN 「キセキ」より)
2009年11月15日日曜日
11月15日 これからの目標
大学時代は、中学校の先生になるために4年間を地元から遠く離れた場所で過ごした。
念願の教員になってからは、仕事に夢中になる一方、協力隊の存在が気になっていた。
そして何カ国か途上国をまわって決断した協力隊。
その一つの目標だった協力隊も残り4か月で終わろうとしている。今まで目標だったものがあって、自分なりにまっすぐに生きてきた。その目標がなくなる・・・という不安が最近自分を襲う。
目標って?これからの自分の生きる目標って?
そう考えて、ぼけーっと考える時間が増えているけど、そう簡単には答えは出てこない。
目標があって、そこになんとか到達したいと思って、がんばってきた20代。2月中旬で30代になる。自分の大好きな職につき、大好きな家族もできた。次の目標って?
それをゆっくり考える時期になったのかな。次の明確な目標を考える30代に。自分の目標、それは自分の夢と言っても言い過ぎではない。自分が中学校のときの夢をはっきりと覚えている。それは
「教師になること」
「途上国で活動すること」
その二つをかなえることができた私はすごく幸せ者なんだろうなあ。次の目標はまだまだ決まらないが、自分がしたいことから、自分ができることを考えていきたい。
「教師として自分にできること」
「途上国で活動したことで、自分にできること」
自分にしかできないことがきっとある。それを今後の目標として自分の胸に持って生きていきたい。
18日水曜日から、アフリカ最高峰キリマンジャロ山への登山挑戦が始まる。自分のペースでいろいろなことを考えながら登りたい。そしてタンザニアを少し見学してからケニアに帰ってくる予定。ケニア帰国予定日は25日水曜日。それまでちょっとブログはお休みです。次回は11月下旬に・・・。
ところでJICA国際ボランティアの情報誌「クロスロード」11月号の「日本の生徒たちへの手紙」というコーナーに、うちの更生院の記事が取り上げられているので、もしよかったらご覧ください。インターネットでも見ることができるのかな。【JICA クロスロード】で調べてみてください。ちょっと宣伝でした。それでは。
2009年11月14日土曜日
11月11日 瀬戸内市立行幸小学校からの贈り物
今月届いた手紙交流の最後の小学校の手紙、それが瀬戸内市立行幸(みゆき)小学校のお友達が書いてくれたお手紙だ。行幸小学校のみなさんも日本語でなく、英語で自分たちの自己紹介を中心に手紙を書いてくれていた。
“I live in Okayama.” 「私は岡山に住んでいます。」
“ I am twelve years old.” 「私は12歳です。」
“ I like Sushi and noodles.” 「僕はお寿司とラーメンが好きです。」
“ I play softball.” 「私はソフトボールをします。」
などなど。何時間もかけて書いてくれたんだろう。本当に手紙として、長い文章を書いてくれていた。また絵を描いてれている友達もいて、その日本の絵にも興味深く見ていた。うちの更生院のスタンダード7、8(中学校1、2年生クラス)の子たちに手紙を読ませ、返事を書かせた。まずは自分が返事を書く子の手紙を真剣に読む。何度も読み返しては、うれしそうに笑顔になる。
そして一人ひとりが返事を書く作業開始。自分の自己紹介はもちろん、その質問の答えやケニアのことなど必死に書いていた。手紙を書いたら、お約束の模様描き。手紙としてきれいに模様を描いていく。自分の似顔絵や動物の絵を描く子もいて、きれいな手紙が完成した。
自分たちの手紙が遠い日本に届くなんて、想像がつかないんだろうなあ。中には日本がアフリカにあるって思っている子どももいるし、ケニアから日本へトラックで手紙が届くと思っている子どももいる。そんなケニアの子たちの手紙を日本へ送ります。そしてまた日本でもたくさんの笑顔になってくれたら、これほどうれしいことはない。
2009年11月13日金曜日
11月9日 ケニア人のこと好き?嫌い?
「どちらでもない。」
これが私の本音だ。今まで何度となく裏切られたり、嘘をつかれたりして、正直うんざりしている。もちろん尊敬する人もいるのだが、多くの割合が好きとは言えないような人。そんなおりmixiを開いていて、面白い記事を見つけた。
『友達をやめたいと思う友達の特徴ランキング』
すごく興味深く、その記事をひらくと1位から5位まで人の特徴が書かれていた。
① 嘘をつく
② 貸したものを返さない
③ 人の悪口をいう
④ 言うことがころころ変わる
⑤ 人の話を聞かない
なるほどねえ・・・と思っているとき、ふと気がついた。これってすべてケニア人にあてはまるのでは・・・!?
① 大人も子供も本当に嘘をつく。
→時間に遅れたときのいいわけ、自分のまちがいを認めず嘘をつきとおす など
② 同僚に貸した1000シル、もう半年待ってるのに返す気がない。
他の協力隊の同期も同じような目にあってる人もいる。
③ 自分の部屋に入っては、上司の悪口。
仕事もせずに、自分の部屋でおしゃべりばっかり。
④ 同僚は私の前と上司の前では言うことがちがう。
子どもも私の前とケニア人の先生の前では言うことがちがう。
⑤ 自分のことは話すけど、私の話はあまり聞かない。
ということで、すべて当てはまるケニア人。もちろん全員が全員そうではないが、私の周りのケニア人はそのタイプに当てはまる人がたくさんいる。これではケニア人のことを好きにはなれんわな・・・。と思ってるうちに自分にも当てはめてみた。
① 仕事を休むとき、時々嘘をつく。×
② 基本借りないので、これは大丈夫。○
③ ケニア人の悪口を最近よく言う。×
④ 基本、自分の考えを曲げないので大丈夫。○
⑤ これは当てはまる。×
というわけで、5つの項目のうち3つに当てはまった私。友達をなくさないように、少し反省しようと思う。
2009年11月12日木曜日
11月5日 岡山市立小串小学校からの贈り物
「ケニアでは、どんな家があるんですか?」
「何の食べ物が好きですか?」
「日本語を知っていますか?」
「好きな教科は何ですか?」
「台所や洗濯機はありますか?」
「将来の夢は何ですか?」
などなど。素直で真っすぐな質問がたくさんあり、子どもたちと一緒にその答えを考えてると楽しくて、あっという間に時間が流れていた。
「俺、日本語知ってるよ。『こんにちは』」
「ぼくはウガリが好きかなあ。」
「先生、英語書くの苦手だから手伝って。」
と、いつにもまして、やる気を持って手紙を書こうとする。こういうときだけでなく、いつもそれぐらいのやる気で授業を受けてほしいもんだと思いながら、そんな反応もうれしい。中には女の子の写真に見とれてる子がいて、まったく返事を書こうとしないので笑顔でげんこつ。
自分の自己紹介や質問の答えを書いたあとも、一生けん命絵を描いて、少しでもきれいな手紙にしようと必死だった。こういう姿はかわいいものです。手紙一枚書くのに1日の授業3時間半を使ってしまうけど、遠く離れた日本の友達に思いを込めて書いた、真っすぐで温かい手紙。そこにはお金には変えられない大切なものがたくさん含まれている。
2009年11月11日水曜日
11月4日 ウォーキング
今、日本では数限りないダイエット商品が店頭に並ぶ。俺には縁のないものだと思っていたが、社会人になってから飲み会の数が多くになるにつれて、横腹にはかわいく、柔らかい脂肪がついていった。夏は汗をかいてスリムになるが、冬は冬眠中の熊のように丸くなって冬の寒さを乗り切る。そんなことを繰り返し、26歳の若さでプチメタボ状態と化した・・・。そんな自分を見るたび、ダイエット商品の前で立ち止まる機会が増えていった。
結婚式前の28歳のときには妻と一緒にダイエット。式で少しでもかっこいい自分でいようと、妻と夜中のジョギング、毎晩の野菜スープを続け、見事結婚式にはスリムな姿で臨むことができた。が、1週間後、激しいリバウンド。あっという間にプチメタボに逆戻りだった。それは妻にも言えるが・・・。結婚式のときはきれいだったなあ・・・。いやいや今でもきれいですけど・・・(フォロー)。
現在は中高生でも自分の体型を気にして、食事制限をする子が増えてきているのだが、実に悲しいことだ。中高生のときって一番体の成長が大きい時期。そんな大切な時期に食事制限するのは間違っていると思う。
そこでみんなにお勧めしたいのがウォーキング。そんなに疲れないし、自分のペースでゆっくり満足するまで歩く。時間を決めてもいい。最低でも30分は歩いてほしい。自分の健康にもいいし、無理な我慢がないから継続してできる。俺はもう1か月半このウォーキングを続けている。食べたい物を我慢せず、しっかり食べて、毎日ゆっくり歩く。実に健康的なダイエットである。毎日2か月も続ければ、効果は表れるはずだ。
また歩いていると、車に乗っている時や自転車では気付かない風景や物に気づくときがある。そんな新たな発見もなんだかうれしい。毎日畑仕事をしているおばちゃん、近くのモスクから聞こえてくるイスラム教のコーランの教え、木のざわめき、虫や鳥の声など。ふと耳を澄ませ、ゆっくり歩いていると、そこにはたくさんの発見があるかもしれない。だからぜひ歩いてみてください、自分の地元を。
将来家族で、いろんなところを歩いてみたいなあ。歩くことを日課にして、プチメタボ対策はもちろん、妻とともにいつまでも素敵なお父さん、お母さんでいれるよう努力したいわ。
2009年11月10日火曜日
11月3日 岡山市立石井小学校からの贈り物
久々にJICAオフィスに行くと、郵便物の中にたくさんの手紙が。同期からはもちろん、地元の岡山県の小学校からたくさんの手紙が来ていた。今週はその手紙の紹介。
この日は岡山市立石井小学校からのお友達からいただいた手紙を子どもたちに見せる。手紙をうけとるなり、笑顔がこぼれる。そして全員が必死にその手紙を読む。この石井小学校の子どもたちは、手紙を簡単な英語で書いてくれていて、更生院の子どもたちでも理解できるから、ありがたい。
そんな英語の文章だけでなく、たくさんの絵も描いてくれている。中には自分と更生院の子どもが手をつないでいるような心温まる絵を描いてくれている子もいて、すごく微笑ましかった。思わぬ日本の友達からのお手紙に、子どもたちは興奮を隠せないようだ。
「私の名前は〇〇です。」
「私は〇歳です。」
「ぼくはサッカーが好きです。」
などなど。日本のお友達ががんばって書いてくれた英語の自己紹介。それを見て早速、更生院の子どもたちも反応する。
“ Mwalimu, mimi pia nataka kuandika barua.”
「先生、俺も手紙書きたい。」
そう言ってくる子が何人もいた。そして下手くそなりに必死に英語で自己紹介を書く。また自分の顔やケニアで見ることのできる動物の絵を描いていく。中には、手紙ということで、きれいなふちまで描く子までいた。
この手紙交流は昨年から行っているが、双方の子どもたちにとって大きな役割があると思って交流をしている。遠く離れた国に友達がいるということ、手紙を通してお互いのことを知れるということ、そして子どもたちの笑顔を生み出せるということ、こういう橋渡しができることにすごく喜びを感じている。
このブログを見ている日本の皆さん、今からでも遅くないので、ぜひゲタスルの子どもたちと交流したいという方は連絡ください。子どもたちも楽しみにしているので。お待ちしています。
2009年11月9日月曜日
11月2日 青空教室
昔、小さい時に見たテレビ番組でアフリカの子どもたちが教室でなく外で地べたに座り、必死に先生の話を聞いている場面を見た。あまりもの衝撃的で、小さいながらもその映像ははっきり覚えている。思えばあのときから、アフリカの子どもたちに接してみたいと思ってたのかも。と感じながら、今日の授業は外で行った。
というのも、キッチンの先生が教室を貸してほしいとお願いしてきたからだ。更生院の食糧倉庫に大量の虫が発生。子どもたちの主食となるマヒンディ(とうもろこし)にわいた虫を駆除するため、教室に一度とうもろこしを入れて、そこに農薬をかける。ケニアらしい実にとんでもないやり方だ。そのため農薬が充満する教室を使うことはできない。というわけで、この日は急きょ机を外に出して授業をしました。
UNICEFからいただいた小黒板、ノートや鉛筆を用意して、全く問題なく授業開始。子どもたちは慣れているせいか、それほど興奮することなくいつもと同じように授業を受ける。他の先生たちは「またケンが、何かおもしろいことしてるな」というような顔で、笑顔でその場を横ぎる。いやいや子どもたちは週1回しか授業がないから当然だろ、と私は思いながら授業を続ける。
そこに生徒と先生がいれば、授業は成り立つ。まったくそのとおり。逆をいえば、「生徒だけでは授業は成り立たないんですよ、マネージャー(所属長)!」と言いたいが・・・。こんな授業でも、子どもたちの目は真剣そのもの。そんな子どもたちと過ごせるのも、残り4か月半・・・。
2009年11月6日金曜日
10月28日 Sushi紹介
インド人系のアナウンサーとケニア人男性の料理人が調理を始めるのだが、準備している食材から、まず度肝を抜かれた。
Rice(お米) ・・・基本ですな。
Mango(マンゴー) ・・・基本??
Strawberry(いちご) ・・・付け合わせ?
Kiwi(キウイ) ・・・なんで果物がこんなに多く!?
Chocolate(チョコレート) ・・・何を作るの?
Coconut Cream(ココナッツクリーム)・・・ デザートを作るの?
Syrup(シロップ) ・・・はあ!?
という食材。明らかに寿司の食材ではない。けど、ここはケニア。日本の「寿司」紹介でなく、ケニアの「Sushi」紹介。ここからまた唖然とする調理が展開する。
① ごはんを炊いて、その中にココナッツクリームとシロップを入れて混ぜる。
② チョコレートを溶かして、シロップと混ぜる。冷蔵庫で冷やして柔らかい状態にする。
③ マンゴー、いちご、キウイを切ってミックスする。
④ 巻きずしを作るときに使う簾(すだれ)の小さい番が登場 →名前がわからない
⑤ そこに初めにチョコレートを引く。その上にごはん、そしてごはんの上に果物をのせる。
⑥ そしてすべてをのせたところで、巻きずしのように巻いていく。そしてSushi完成。
み、見ためは確かに巻きずしだが、すごく抵抗がある。ようするに勘違いが甚だしい。
酢飯 → ごはん with ココナッツクリーム、シロップ
海苔 → チョコレート、シロップ
玉子 → マンゴー
きゅうり → キウイ (ダジャレだとしても、おもしろくない)
ピンクのやつ(名前がわからない) → いちご
もう一度言うが、これは日本の「寿司」紹介でなく、ケニアの「Sushi」紹介。怒らないで、読んでほしい。しかし最後にダメ押しとなるテロップが。
“ Sushi is Japanese dish.” 「Sushi は日本の料理である。」
やっぱりケニア人の単なる勘違いだったようだ。
2009年11月5日木曜日
10月27日 「誰のペン?」
“ Hii ni ya nani?” 「これは誰の?」
“ Ya Dennis.” 「デニスのだよ。」
そう言って、カウンセリングの後、彼とデニスを呼ぶ。
“ Hii ni ya nani?” 「これは誰の?」
“ Yangu.” 「僕の。」
“ Umekuja nayo?” 「持ってきたの?」
“ Niliokota huko Dining.” 「ダイニングで拾った。」
唖然とするわ、この感覚。学校で拾ったものすべてが自分のもの。拾ったって言って先生に持ってくる子は本当に少ない。日本の学校でも、同じことが言える。廊下でシャーペンを拾ったら先生に預ける、当たり前のことだが・・・。そんな日本での当たり前のことは、通用しない。特にここは更生院。
そう言えば、運動場でも同じ状況がある。ある生徒がサッカーするためにコートの隅にサンダルを置く。それを他の生徒がとっていく。その子の言い分は、
「運動場に落ちてあったから、もらった。」
これでけっこう殴り合いのケンカになるんだよな。日本では考えられないこと、ここゲタスル更生院では普通に起きます。
その後、彼とデニスに言った。
“Vitu ambavyo uliokota katika shule ni za shule. Sio yako.”
「学校で拾ったものは学校ので、あなたのじゃないよ。」
そういうことから始めなくちゃいけない。10歳から18歳が生活するゲタスル更生院だが、日本でいう保育園や幼稚園でする指導もしています。
「俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの。」
そんな悪意のないジャイアンが多いけど、すぐに考えを改めてくれる道具をドラえもんが出してくれたらなあ・・・なんて現実逃避も考えてしまう弱気な私です。
2009年11月3日火曜日
10月26日 マサイ族のトゥカイ
この2つのクラスで、一番時間をかけて指導をしている一人の生徒がいる。それはマサイ族のTukai(トゥカイ)くん。彼はほとんど学校に行くことなく、家の手伝いをしていたそうだ。ほとんど毎日、放牧している牛の世話や畑仕事などをしていたらしい。両親が学校に行かずに仕事をするようにと彼に言っていたらしい。
彼はアルファベットはもちろん、数字さえ書くことができない。いつも彼の右手の上に手を乗せ、一緒にアルファベットや数字を書いてやる。何度何度も。10回や20回どころではない。鉛筆さえほとんど持ったことのない子である。そうやってつきっきりで指導する。
が、少し考えてもらいたい。教育は絶対必要なのだろうか。
あるマサイ族の人とマサイ族の第2夫人のとして有名な永松真紀さんとお話をした際、すごく興味あることを話してくれた。それは子どもの学校のこと。マサイ族のある村では子どもは大事な働き手である。放牧している牛や山羊(やぎ)の世話はもちろん、狩りの方法まで学ぶ。しかし学校に行くことで、伝統的に受け継がれてきたことが子どもに伝わらないというのだ。もちろん、その村で暮らしさえすれば、英語はもちろんスワヒリ語さえ必要ない。部族語のマサイ語でコミュニケーションできるからだ。
第三者の私が、伝統よりも学校で学ぶ教育のほうが大事だなんて言うことはできない。そこには私の知らない事情や決まりなどがあるからだ。地方の村に住む少数民族や部族の人たちに「教育は大事だ。子どもを学校に行かせるべきだ。」なんて言えない。
実際にこのような途上国に住み、いろいろな人に出会うと日本で学んできた国際理解や開発教育にいささかの疑問がある。世界が求めるほど、現地の人は求めているのだろうか・・・。学校教育、識字教育など。もちろん大事なことはわかるし、子どもたちに教育を提供するのは大人や国の役目だとも思っている。それでもいろいろ考えさせられる。けど、そうやって考えることで、少なからず俺も国際理解のことを考え、レベルアップしていけると思っている。
それでも、アルファベットの「O」や数字の「1」がTukaiが自分一人で書けて頭をなでてやったときの、あの嬉しそうな笑顔を見ると、教育も大事であるって自信を持って言える。伝統も教育も同じように大切であるってTukaiがお父さんになったときに、自分の子どもに伝えてくれたら、これほどうれしいことはない。
2009年10月28日水曜日
10月20日 「あきらめたら、そこで試合終了だよ」
最近はおだて作戦がきかなくなってきた。そして子どもたちにまた迷惑がかかるようになってきた。誰もしない授業、子どもたちは教室に入っておしゃべりが続く。見るに耐えられない状況になってきた。毎日のようにぐちゃぐちゃになる教室、先生がだれも来ない授業・・・。結局こうなることは誰しもがわかっていたことだよな・・・?
授業担当の先生を雇ってもらうように、昨年の12月から言っているし、それが無理ならボランティアティーチャーを呼んでもらえるように言っているのだが、マネージャーの返事は「呼んでいるが、来ない」の一点張り。なんの解決策もない。せっかくJICAにまで頼んで、ゲタスル更生院に授業担当の先生を入れてもらうように頼んだのに、まったくの効果なし。そして、待っても来ない先生を待つよりは自分が授業をするべきだと思い始めました、英語と数学の授業。
「継続ある活動、ボランティアがいなくなっても現地の人で続けることができる活動、そんな活動がここゲタスル更生院でできるかあ!?」
「そこに授業をしたい子どもが待っているのに、他の先生が待てるか!?」
「わずか3か月間しかこのゲタスル更生院で生活しないのに、週に1回しかない授業を中途半端にできるか!?」
って声をあげて言いたい。そんな思いが込み上げて来て、ついにこの日から授業スタート。英語と数学をしっかり子どもに教えました。
ようやくスラムダンクの安西先生のいう『断固たる決意』というのができました。子どものこれからを言葉ばかりで何も考えてないマネージャーに何を言われても、これからは子どものために授業を続けていきます。それが私の断固たる決意。
「あきらめたら、そこで試合終了だよ。」
そんな安西先生の言葉を頭に入れて、最後まで自分のプレイをし続けます。
2009年10月27日火曜日
10月19日 ゴミは拾うもの
この日、妻と一緒に運動場を歩いていて、ふと妻が言った言葉である。
この瞬間はっとした。運動場に落ちているゴミの存在が自分の中で当たり前になっていた。日本ではゴミが落ちていたら拾うんだ。そんな当たり前の感覚がほとんどなくなっていたから、その言葉は俺にとって新鮮であり、すごく衝撃的だった。
そして二人で両手いっぱいになるまでゴミを拾い、ゴミ捨て場に持って行った。ゴミがたくさんある環境で子どもたちが良くなることはねえわな・・・。改めて反省した出来事だった。その日から一人で黙々とゴミを拾うことを始めた。同僚や子どもたちに自分から言わず、その姿で何かを感じ取ってくれないかなあ。
“ Ken, hiyo ni Japanese Culture?” 「ケン、それは日本の文化かい?」
と言って笑った同僚もいた。悔しさを通り越して、あきれてしまった。ゴミをどこでも捨てていい、なんて言うのはケニアの文化でもなんでもないと思う。ただケニア人がゴミや環境問題について興味・関心がなく、何気なくやっていることだ。率先垂範、自らがすすんでするようにしよう。
何気ない妻の言葉が、久し振りに日本人の感覚を思い出させてくれた。
2009年10月23日金曜日
10月15日 散歩
ゲタスル更生院 → カベテ更生院 → ナイロビ孤児院 → おやつ時間(バナナ)
→ ナイロビリマンドホーム → ゲタスル更生院
そして子どもたちは嬉しそうに散歩を始めた。はじめのカベテ更生院では「ケニアの桜」と呼ばれるジャカランタの木の下で記念撮影。そして牧場で牛を見学。久々の外の空気に何人かは興奮しっぱなし。そしてナイロビ孤児院を通り、小さなキオスクでバナナを買う。子どもたちは思わぬバナナのおやつに大喜びだ。そしてナイロビリマンドホームへと。
途中、たくさんの地域の人たちに会うのだが、子どもたちは挨拶ができない。もともと、ストリートで育ってきたり、非行を重ねてきた少年がほとんどなだけに、挨拶はほとんどしない。そこで一人ひとりに伝えたことは挨拶の大切さだ。道行く人たちに気さくに挨拶をする。それがまたこの更生院の子どもたちの目標だ。
“ ・・・Habari?” 「こんにちは」
恥ずかしそうに、道行く人たちに挨拶をしていく。そんな恥ずかしさも大事な初めの一歩。地域の人たちが挨拶を返してくれるたびに子どもたちに笑顔も増える。子どもたちにはもっと周りの大人に慣れていってもらいたいと思う。将来的には周りの人と助け合える、そんな人になってもらいたい。かなり高い目標だが・・・。そしてこの日の散歩も終了。
“ Mwalimu, asante.” 「先生、ありがとう」
子どもたちのその言葉が、この日も心に心地よく響く。
2009年10月22日木曜日
10月14日 動き始めた新たな活動
そして算数の時間のはじめにウォームアップとして、この計算カードを使って簡単な計算をさせる。この単純作業はケニアの子どももやる気を持って取り組むことができる。最近では計算が速くなった子もいて、次々に計算カードを制覇する子が増えてきた。このような小さな努力とがんばりをしっかりと見ていきたい。
またもう一つ取り組んでいること、それは図書館委員の設置である。以前管理・運営していた図書館がここ最近ほとんど開かれていなかった。図書館を開けるように頼んでおいた同僚も週に1、2回しか開けてくれない。そこで子どもたちの自立も兼ねて、図書館委員を設置した。これには所属長(マネージャー)の強い反対もあったが、(子どもたちが図書館の本を盗んでしまうため)なんとか動き始めた。
図書館カウンターに2人の子どもを置いて、本の整理整頓、そして借りていく子の名前や本の名前のチェックなどをさせるようにした。このことで図書館はほぼ毎日のように開くようになった。そしてまた子どもたちは毎日、自分で本を見て学習できるようになった。 これもゲタスルの子からすると、大きな進歩。そういう責任ある仕事をすることで、責任感や自立心を養っていきたい。
このように自分が表に出ず、裏から支えることがこれからの課題。5か月後自分がいなくなったときに、授業(学習)セクションが混乱しないように、少しずつ基盤を作っていきたい。先生がいなくても、その日授業がなくても自己学習できる環境、それが今のゲタスル更生院に必要なことだと思う。
まだまだ基盤づくりとしてやりたいことは山ほどある。が、一つひとつがきちんと形になるように、焦らず丁寧に基盤を作っていこう。
2009年10月20日火曜日
ワタム・マリンディ⑤ ラクダに乗った法師
そんな三蔵さまの気分を少し味わったこの日。頭はすっかり坊主の私は、白馬でなくやる気のない顔をしたラクダに乗ることにした。身長2メートル以上はあるのではないかと思うような大きなラクダ。頭の中にはすでに「ガンダーラ」のテーマソングが流れている。
そしてまっ白い砂浜と青い海をラクダの背に乗っていざ出陣。乗り心地は正直言って悪い。三蔵さまもラクダでなく白馬にしたのは正解だ。これで中国から天竺まで行くことはできないわ。
ワタム・マリンディ旅行の締めくくりとしてラクダに乗ったが、本当に三蔵さまはこんな気持ちだったのだろうかなあ。ラクダを引いてくれるお供は孫悟空でも猪八戒でも沙五浄でもなくケニア人のおっちゃんだけど、そのおっちゃんもお供でなく100シル(130円)をきっちりとる商売人だけど、それでも少し三蔵さまの気持ちを感じた気がするわ。 まあ今の俺は三蔵さまでなくて猪八戒だな・・・(泣)。
2009年10月19日月曜日
ワタム・マリンディ④ 小さな出会い
ワタムという村にある、小さくきれいなビーチ、ワタムビーチ。そこで無邪気に遊んでた地元の少年たち。パンツ一丁で透き通る海を泳ぎまくっている少年。そういう光景を見ると声をかけずにはいられない私です。近寄っていき、笑顔で声をかける。
“ Sasa, kijana? Hebu, kuja kunisalimia.” 「よう、少年。こっちに来てあいさつしてくれよ。」
そう言うと、驚いた顔をして(東洋人がスワヒリ語を話しているから)近寄ってくる。その子たちの名前や学年、好きな遊びなど聞きながら世間話。自分もケニアの生徒の先生だということを伝えると信じられないような疑いの眼差しで見つめる。そんな反応もなんだか新鮮で楽しい。このような出会いがすごく好きだ。
次にきれいな海を散歩していると、小さな女の子を二人乗せた帆船がやってきた。おじいちゃんの巧みな操縦で、私たちに近寄ってくる。
“ Tunaenda huko. Unaenda?” 「私たちはそっちへいくけど、一緒に行くかい?」
そういって誘ってくれる。だが誘ってくれるわりには、ちゃっかりお金をとられる。わずか200メートルほど離れている小さな島まで往復で300シル(420円)ほどだ。せっかくなので乗せてもらい、その島へ行くことにした。小さな女の子たちの隣に座り、会話をする。少し恥ずかしそうに、いろいろ話してくれる二人。
島について一緒に探検。カニを見つけては一緒にはしゃいだり、カモメのような鳥を追いかけまわしたり。もうすっかり二人とも私に慣れたのか、手もつないで一緒に散策してました。
“ Leo, tulikula samaki na shima.” 「今日は、魚とシマ(ウガリ)を食べたんだよ。」
そう言って笑顔でその日食べた昼食などを教えてくれる。夜は豆の煮込みを食べるらしい。そんな何気ない会話がなんだか嬉しい。そしてあっという間の小さな出会いの時間は終わりました。「一期一会」って言う言葉があります、ここケニアでの出会いは本当に一生で一度の出会い。だからそんな出会いを大切にしていきたいと思います。よく忘れがちになったり、早く日本に帰りたいと思うほどケニア人のこと憎んだりもしますが、こんな出会いがあるからこそ、ここケニアにいてよかったと感じます。更生院の子どもたちとの出会いもそんな気持ちで迎えたいなあ。
2009年10月16日金曜日
ワタム・マリンディ③ シュノーケリング
マリンディ海洋国立公園に行き、ビーチボーイがアレンジするシュノーケリングツアーに申し込む。2人4000シル(5200円ほど)で公園入園料、ボート料、シュノーケル・海中メガネ代などが含まれている。そして沖のほうに出かけて行く。
沖に来ると、そこはきれいなマリンブルーの海が広がっていて、無数のきれいな魚が歓迎してくれた。餌がもらえると思ったのだろうか、ボートのそばにたくさん集まってくる魚たち。ボートのキャプテンがパンを細かくちぎって海に投げると、それはすごい勢いで食べ始める。
そして魚が集まってきたところでシュノーケリングの準備をして、入水。自分のお腹についた柔らかい浮き輪の出番だ。そして海で泳ぎ始める・・・が怖い!!波が高く、水も冷たい、海中メガネの中にもなぜか海水が入ってくる。そんなこんなで魚がきれいと思えず、怖さが一番に出てくる。いやあプールでは泳げるのに、なかなか海は怖いものです。
その後自分の浮き輪でなく本物の浮き輪を借り、シュノーケルを始めました。いやあ浮き輪があるだけで安心感が一気に増すんです。それからは楽しく魚と一緒に泳いでいました。きれいな色の魚、途中出てきたハリセンボン。最高です、シュノーケリング。そしてその後、妻の船酔いのため早めに終わり帰ってきました。
その他にもバスコダガマ・クロス(十字塔)に行ったり、ポルトガル教会跡に行ったり、きれいな砂浜を散歩したりととマリンディの町を満喫しました。普段見ているケニアの風景とは全くちがう風景で、見るものすべてが新鮮でした。こうやっていろんなケニアの町を見ることも大切だなあと改めて感じた一日だった。
2009年10月15日木曜日
ワタム・マリンディ② ゲディ遺跡
そんな歴史を感じながら、一つひとつの遺跡に目を奪われた。何百年も前に建てられた建物、それをずっと見守っていた大きなバオバブ。なぜか不思議な感覚を感じながら、歩きまわった。
そんな素敵な遺跡でもケニア人はお金儲けを考える。今回は入場料を払う受付で、その甘い誘いを受けた。
“ Wewe ni kama mwenyeji. Ulipe bei ya citizen. Haralu, nichukue 200 na uchukue 100.”
「あなたは現地の人のようだね。現地価格を払ってくれ。そして私が200シル受け取って、あなたが100シル受け取れば。」
私の正規の金額は400シル。それを現地人価格の100シルにするから、そのうち200シルを自分のポケットに入れて、残りの100シルを俺に返してくれるらしい。そんな悪魔のささやきだ・・・。
もちろん私の答えは “Hapana!”「いいえ!」。何よりもケニア人が得をするのが嫌なので、完全否定。そして言ってやりました。
“ Unapenda Corruption? Acha michezo!” 「横領が好きなの?ふざけるなよ!」
そして、また一つケニア人の嫌な部分が見えてがっかりでした。こんな観光地でも平気で、自分のお小遣い稼ぎをしているのが現状。早くこのようなことがなくならないかなあと思うばかり。それでも、法外な入場料を要求するんでなく、ちゃんと看板通りにお金を請求するのは評価できるかな・・・。
2009年10月14日水曜日
ケニャイチロー旅行記 ワタム・マリンディ①
ナイロビから飛行機で約1時間、小さな空港から行った先はすごくステキなホテル、タートルベイ・ビーチ・クラブ。3食付きで、ジュースや生ビールが飲み放題。まさに楽園のようなところです。昼食(ピザとパスタ)をとり、もちろん昼から生ビール。ほろ酔いで、大きなプールに入りました。久々のプールで大はしゃぎしてしまいました。3時にはおやつとなる、マンダージ(揚げパン)とカステラを食べ、プールサイドでジュース。こんなことをしたことのない私と妻は田舎者丸出しで、そわそわしていました。
私は倉敷市の児島、妻は高梁市の成羽、まあそれほど都会ではないところで生まれ育ってるので、こんなリゾートには慣れていません。タダでもらえるものはもらっておこうということで、太りやすい体のことを忘れて、飲んで食っての毎日をこの日から送ることになります。
この日はホテルでのんびりして、夕食もリッチにフルコース。ナイロビでは食べることのできないイカ焼きを食べることができ、ビールもその分すすみました。体重のことは気にせず、食べるだけ食べてしまいました。
夜は地元住民の歓迎の歌やダンスを見て、楽しくこの一日が過ぎました。この日が二人の体重増加物語の序章だということに気付かず。
2009年10月5日月曜日
9月30日 やっぱり子どもは肉が好き
もちろん、うちの更生院は3ヵ月しか滞在することができないので、子どもたちはうちに来て初めての肉を食べることになる。今まで毎日のようにトウモロコシと豆を煮たギゼリ、ウガリと豆といったようなものを食べていた。年頃の男の子はやっぱり肉が好きだけど、それを買う予算がまったくなかった。
私も何度かミーティングで食事について意見を言ったことがある。子どもの何よりの楽しみである食事に肉を出してほしいと。しかしいつもマネージャーからはお金がないということで、それを見合わせていた。そしてこの日とうとう肉が出たのだ。
この日の夕方、小さなトラックが肉のかたまりを持ってくる。カウンセリングを聞いていた子どもたちの集中は “MEAT”(肉)と書かれたトラックに注がれる。そしてカウンセリングの先生の話は、耳から耳へと流れ、頭の中は肉一色となる。それも仕方のないことだが。
夕方のスポーツの時間も、夕食の時間が待ちきれないといった子どもたち。家でも肉を食べる機会なんて、あまりなかった子もいるだろう。家族でわずかな肉を分け合ってた子もいるだろう。そんな子どもたちの大好きな夕食時間がやってくる。
食堂前に並ぶ子どもたちの表情は、はちきれんばかりの笑顔。悪ガキやボス猿のような子でさえ、笑顔になっている。そして肉が乗ったお皿をとっては嬉しそうに席に着く。
“ Mwalimu, karibu!” 「先生、どうぞ!」
そう言って、うれしそうにごはんを私にくれようとした子が何人もいた。そんな子どもたちの気持ちに一口だけ食べて、私も笑顔になる。大きな骨に少しだけ付いている肉を一生懸命にかじりついている子、飲み込むことをためらい何度も肉を噛んでいる子、それはそれは丁寧にきれいに肉を食べていく。そんな大事に肉を食べる様子がなんとも愛おしかった。
次の日から子どもたちが待ちに待ってたトランスファー(他の更生院への移動)が始まる。
2009年10月4日日曜日
9月29日 子どもたちの性事情
さて、この日の午前中子どもたち一人ひとりと話をしていき、その子の背景などを知ろうとしたとき、ある子の話が大変興味深かった。それは地元にある怪しいお店の話。そのお店はポルノムービー、いわゆる日本でいうAV(アダルトビデオ)を上映するお店の話である。
ここケニアではポルノムービーは禁止されている。販売行為はもちろん、鑑賞ももちろん法律上禁止のようである。しかし、どの町でも小さな小屋にテレビとビデオ(もしくはDVD)を置いて上映しているような場所がある。そこは子どもも大人も一緒にポルノムービーを見ることができる。値段は以下の通り。
大人 2時間10シル(約15円)
子ども 2時間 5シル(約8円)
そこには男性だけでなく、女性はもちろん女の子まで入ることができて見ているということである。その話にかなり驚いたのだが、次の質問の答えにさらに驚いた。
“ Nani amewahi kuangalia ile movie?” 「そんなビデオを見たことがある人?」
“ Mimi!” 「おれ!」
そう言ってほとんどの子が手を挙げる。10歳から17歳の子が在籍する更生学校で、ほとんどの子がポルノムービーを見たことがある。それもお金を払って、上映会のようなもので見る・・・、この結果に驚いた。
性がここケニアではかなり近い存在であり、だれもがオープンに話をすることができる。しかし間違った性知識が子どもたちの中にはないだろうかと感じることがある。ここケニアでは性教育は本来だれが教えるものなんだろう?親?それとも学校の先生?はたまた性教育を中心として活動するNGO?
いろんな疑問が頭の中にわいてくる中、性教育はこれから日本の教育でも大切になってくるのではないかと思っている。日本ではだれが性教育を教えるんだろう?保健体育の先生?そもそも保健と性教育って同じものなのだろうか?いや根本的にきちんと教えてるんだろうか?アフリカにいるからこそ気づいたことがある。私はまだまだ日本のことを知らないのでは・・・。半年後、教員として復帰する以上、もっと日本のことを知りたいと強く思う。
2009年9月30日水曜日
9月25日 光あるところに闇もある。
ケニアはアフリカの国の中でもかなり発展していると感じる。観光業もサファリなどの国立公園をはじめ、コースト(海岸)沿いのリゾート地などが存在し、海も山も動物も見ることができる。町もかなり発展しており、ナイロビやモンバサでは手に入らないものがないくらい。もちろん日本食レストランもあり、私たちは何の苦労もない。
しかし光あるところに闇はあるもの。急速に発展したケニアでは、その発展の波に乗ったケニア人もいれば、そうでないケニア人もいる。急速な発展は貧富の差をかなり大きくしたといっても過言ではない。ナイロビのタウンのはずれにあるキベラ地区をはじめとする数か所のスラム地区(貧困地区)。その代表的なキベラ地区でも現在約100万人が住んでいるといわれている。
また貧富の差が大きいと治安が悪くなるのも必然だろう。発展しているケニアは現在アフリカの中でも治安が悪くて有名だ。主な原因はやはり、多くの失業者だろう。ケニアは発展しているといっても失業率はかなり高い。30歳までの若者で就職している人は2人に1人、就職率約50%とも言われている。なんだかんだ言っても、やはりお金は大事。ご飯を食べるにしても、より良い生活をするにしても、服を着るにしても、友達と遊ぶにしても、何をしてもお金は必要だ。そのお金がなければ、そのお金を得る仕事がなければ、ストレスもたまるだろう・・・。そして手段を選ばす、お金を得ようとする若者が増える。だまし、嘘、スリ、強盗などなど。
そんなケニアのさまざまな面を日本の人に知ってもらいたいし、日本に帰ってからそのことを日本の人に伝えたい。そんなケニアのさまざまな背景のもと、ここゲタスル更生院にやってきている子どもたち。その子たちを見て、ただかわいそうと思ってほしくない。一人ひとりと接してもらって、そこから何かを感じてもらいたい。スワヒリ語が分からなくても、英語がわからなくても、感じることが何かあるはず。何気ない一言で最高の笑顔を見せたり、その一方で近くの果物を盗んでいたり。そんな子どもたちが住む更生院を多くの人に見てもらい、そしてそこからまた日本にいる人たちにケニアの子どもたちについて伝えてもらいたい。 決して子どもが悪いわけではない。「罪を憎んで、人を憎まず」ではないが、今はケニアという国の状況を憎んで、子どもだけは憎みたくない・・・そう感じる。
もしケニアのお越しの際は、ぜひここゲタスル更生院にお越しください。
2009年9月28日月曜日
9月17、18日 同期とのアンボセリサファリ
“ Wewe si mgeni. Leo usilipe.” 「あなたはお客じゃないから。払わなくていいよ。」
と言われ無料に。何回も来ると、いいこともあるものです。そして一行はアンボセリ国立公園のゲートに到着。車に近づいてくるマサイ族のママたちとも顔見知り。少々高くても、このママたちからいつもお土産を買っています。この前は妊婦のママから、妻と俺のお揃いの小物を買って、お腹まで触らせてもらいました。
そして私たちは高級ロッジ「アンボセリセレナ」に到着。このロッジの食事はいつ来ても最高です。肉に魚、サラダやデザート。いつも満腹になるまで食べ続けます。このロッジでの3食で約1週間分の栄養をきちんとお腹にためて帰るようにしています。この日も前菜として山盛りに盛ったサラダから始まり、スープ、牛肉・鶏肉・魚などメインとなるものを何種類も食べました。こんなときにダイエットなんて言ってられんわな。
その後大好きな昼寝の後、ゲームサファリ(サファリドライブ)へ。正直、そのまま昼寝をしたかったのだけれど・・・。この夕方と次の日の朝、運のいいことにキリマンジャロが見える。4回来て2回は全く見えなかったキリマンジャロです。そんなアフリカ最高峰のキリマンジャロをはっきり見ることができ、みんな大興奮。中には動物をそっちのけで、キリマンジャロに心奪われている人もいました、そうだよねトモちゃん?
そして夜もごちそうを食べながら、みんなと楽しく雑談。この時間が最高なんだよな。活動の話、愚痴、恋の話、結婚の話、妻ののろけ話などなど。お酒に弱いのに、なんでこういうときは、たくさん飲めるんだろう?と思うぐらいケニア名産tuskar ビールが旨かったです。
あっというまに1泊2日のアンボセリのサファリツアーは終わり、2日目の夜、ザンビア隊のトモちゃんとサブを見送りに空港へ。二人の満足した笑顔を見て、こちらも大満足。同期との旅行って本当に楽しいし、思い出に残るんです。次の日にはボツワナ隊のナコを送って、そしてケニアでの任国外旅行が終了。他の国からのたくさんの刺激と元気をもらって、また活動に励もうと心に誓いました。