2009年8月28日金曜日

曲がったことが大嫌い

 自分はどういう人間ですか?と聞かれたら、俺はこう言うかな。

 「昭和のオヤジ」

 正直まったく柔軟性はない。不器用で曲ったことが大嫌い。正直、自分は協力隊に向いていない。結婚観もまさに昭和人間。妻にプロポーズをする前、変な確認をした。

 「子どもが生まれて大きくなったときに「行ってらっしゃい」「おかえり」って言ってもらいてんだよなあ」

 つまり妻に家にいてほしいということをさりげなく(全然さりげなくじゃないが・・・)、ほのめかす。基本妻には家にいてもらい、子どもとの時間を大切にしてほしい。こんな固い男、今の世の中いるんだろうかと思うが、そう思っている。

 プロポーズの言葉もロマンチックな言葉が言えるような男ではない。レストランで夜景を見ながら、そっと指輪をだして・・・なんてことはさらさらできない。直球あるのみ。2年前、昼間に地元の倉敷市児島での買い物から帰る途中、車の中で

 「籍入れるか?」

 と何気なく言ったのがプロポーズだ。今でも妻には申し訳ないなあと思っている。日本に帰ったら、妻の大好きなオレンジ色のガーベラでもプレゼントしようかな。

 それはさておき、ここケニアでも曲ったことが大嫌いだ。特に最近の同僚の言動には目にあまるようになってきた。もちろんその言動に目をつぶればそれでおしまいなのだが、俺の性格がそれを許さないようだ。自分の利益に走る考え方、都合が悪くなると嘘で固めてしまう逃げ方、他の人が悪いかのように言う罪のなすりつけなど。最近は俺も慣れてきたせいか、ケニア人に指摘する。しかしプライドの高いケニア人にとっては、それがすごく腹立たしいことのようである。自分が間違っていても認めない。最近は言い争う場面が多くなってきた。

 けど、それでいいと思う。我慢ばかりするのも正直疲れたし。自分の言いたいことを、真っすぐ言ってぶつかればいいんじゃないかなって思い始めた。それで俺の考え方や思いなど理解してくれるなら。

 本当に最近思うが、俺は協力隊には向いてないんだろうなあって思う。だからあとの7か月、7か月もあるんだあってよく思う。それでもこんな昭和男のことを支えてくれる人がいて、応援してくれる人がいる。そのことを幸せに感じ、自分らしく活動していこう。

2009年8月27日木曜日

8月20日 Animal Orphanage(動物孤児院)


 日本からの友達と一緒にナイロビ観光。今日の目的地はナイロビ国立公園に隣接する動物孤児院(Animal Orphanage)である。親がハンターなどに殺されたり、群れとはぐれたりした動物の孤児たちを飼育している場所である。ここでは大型動物も本当に近くに見ることができる。日本でいう動物園のようなものだが、ライオンやヒョウ、チーターなどが身近で見えるところがすごく興奮する。まるまる太ったハイエナやイボイノシシなどもいて、予定していた1時間半の時間も忘れて、メンバー全員大はしゃぎだった。

 ちょうど訪れた時間がごはんの時間で、肉食動物のライオンやチーターに肉の塊をあげていた。その肉にむしゃばりつく姿は本当に豪快で、その姿にほれぼれした。おまけにチーターにも触ることができ、大満足の時間だった。

2009年8月26日水曜日

8月18日 とうもろこしの収穫






 
 半年に一回のmahindi(とうもろこし)の収穫の日。この日、授業はすべてなくなってみんなで更生院の畑へ。2~3メートルほど伸びたトウモロコシの葉には、たくさんのトウモロコシがなっている。それを子どもたちとみんなでとった。

 “ Kesho asubuhi, tutakura mahindi!” 「明日の朝は、とうもろこしを食うぞ!」

 そう言うと、子どもたちは大はしゃぎ。どんどんとってきては大豊作のとうもろこしを見て、みんな笑顔がこぼれる。こういう収穫の時って、本当にいい笑顔になります。このトウモロコシはすべてが子どもたちのお腹に行くのでなく、まずは大半を売ることから始まる。そして売ってできたお金を、更生院を管轄するジェンダー・児童・社会開発省に送る。そしてそこから、また更生院へ予算が下りてくるという次第だ。なんだかややこしいが、それが決まりみたいである。

 夕方からは運動場で焚火をして、みんなでトウモロコシを焼く。出来たての焼きトウモロコシは抜群にウマい。もぎたてトウモロコシを嬉しそうに食べる子どもたちを見て、少し涙ぐんだ。最近は少し涙もろい。歳を重ねてきたからかなあ。そんな私も大好きな焼きトウモロコシを3本食べました。いやあまた太ったかな。

2009年8月25日火曜日

8月17日 ボール運びリレー


“ Ready go!” 「ヨーイ、ドン!」

 その瞬間、必死にボールを後ろに送る子どもたち。俺よりよっぽど負けず嫌いな子どもたちは体育の授業でも勝ちにこだわる。勝負事には、かなり厳しいケニア人。この日も体育の授業で行った「ボール運びリレー」で白熱したレースを展開してくれる。

 “ Ukinbie haraka!” 「早く走れよ!」

 そういう声が飛び交う中、一番後ろの子がボールを持って走る。そしてまた前から後ろへボールが送られる。ルールを守らせることも大事だと考えている私は、ケニア人の勝ちへの執着心からくるインチキを見逃さまいと、目を光らせる。このレースを9歳から18歳までの子が必死になってするので、こちらとしては楽しい。どんな種目やゲームでも反応良く楽しく活動してくれる子どもたちとの体育の授業は楽しい。

 “ Leo, tunafanya nini?” 「今日は何をするの?」

 最近の体育の時間前によく耳にする言葉。体育が楽しくなってきた。

2009年8月24日月曜日

8月15、16日 2回目のアンボセリ


気分転換。この日は日本からの友達が4人来ているので、アンボセリ国立公園へ1泊2日の旅行。同期のニッシーも含め、合計6人で行ってきました。久々の旅行に朝から興奮気味で、サファリカーの中で一睡もすることなくナイロビから国立公園へ向かいました。

 焦ってもしょうがない。困った時こそ「急がばまわれ」。リラックスして気分を変えれば、また何かいい考えが浮かぶかもしれない。そう考えて、すごく楽しみました。前回雨季の時期にやってきたのだが、今回は乾季。またアンボセリの違った姿を見ることができました。その中で動物もちがった様子が見られました。

 ○すごくかわいらしい顔をしたハイエナ。
 ○細い足でダッシュをするキリン。
 ○アカシアの木(つまようじのような痛々しい木)をむしゃむしゃ食べるゾウ。
 ○バッファローについてこられるライオン。
 ○おっちゃん座りをしたバブーン。
 ○マッチを使わず、硬木と軟木で火をおこすマサイ族。

 などなど。来る時期によって、サファリも違うんだなあと改めてサファリの楽しさを感じました。ロッジの食事も最高。予想してましたけど、食べすぎてまた一段と丸くなってしまいました。そして隊員特有の病気にもかかってしまいました。その名も・・・

 『おいしいものを食べすぎたら、お腹がいたくなる病』

 これは日ごろ、豪華なものを食べることができない隊員がたまに、すごいごちそうを食べると胃がびっくりしてお腹が痛くなるという病気です。それでも食べ続けるのが隊員の性・・・。というわけで、不安定なお腹と一緒にサファリを楽しんだ2日間でした。

2009年8月22日土曜日

8月14日 ころがしドッチ


 初心に帰る。もう一度自分のできることから始めていく。心の中のモヤモヤは正直消えていない。先日ケンカしたボランティアティーチャーとのコミュニケーションもぎこちない。それでも、あと7か月となった活動期間。いつまでもこんな調子だと絶対に後悔する。そう考えて、机に座り一人体育の授業案を考えた。

 この日スタンダード1、2(小学校1,2年生)の子どもたちとした体育の種目は「ころがしドッチ」。みなさんは「ドッチボール」というスポーツをご存知ですか。私が小学校のとき昼休みの時間などに必ずしたスポーツ、いや遊び「ドッチボール」。コート上で相手にボールを投げ、当てるというものである。そのときその相手がボールをキャッチすれば、そのままボールを投げ返すことができる、単純かつサバイバルなスポーツである。

 そんな「ドッチボール」の改良版「ころがしドッチ」をした。ボールを投げる代わりに、ボールを転がして相手に当てるというものである。相手はただそのボールから逃げるだけ、単純な遊びだ。いつものようにグラウンドを走り、ストレッチ。長縄で作った丸いコートに子どもたちを入れ、早速ゲームスタート。単純なルールからか、子どもたちはあっさり理解。上から投げる子やコートに入って投げる子もいない。すごくみんな楽しそうだ。転がされたボールから夢中になって逃げる子どもたち。笑いが絶えない。そして3分後、ボールをもう一つ投入。2つのボールになると、簡単に当てられてしまう子どもたち。けど、当てられてもなんだか嬉しそう。

 “ Mwalimu, tena!!” 「先生、もう1回!!」

 そう言って子どもたちは何度もコートに入る。どうやらむちゃくちゃ気にいってくれたよう。最後の1回は私も中に入って参加。ある子どもをつかんで、後ろに隠れる。私が小学校の時にした裏ワザだ。

 “ Mwalimu, mbaya!” 「先生、ひどいよ!」

 そういう言葉も笑顔で言ってくれる。そして同じように反撃をくらう。子どもたちが同じように私をつかんで、後ろに隠れる。今回初めてしたのにこの裏ワザを使えるなんて、さすがケニアの子ども。そしてあっという間に私は当てられてアウト。子どもにかっこいい姿を見せることはできなかったなあ。それでも久々に笑えた時間でした。

 子どもの力って不思議だなあ。子どもと接するだけで、いやなことを忘れることができる。普段笑えなくても、その時は笑うことができる。最近は俺のほうが子どもたちからたくさんのパワーをもらっている。そろそろ立ち直らなきゃと感じてきた。

2009年8月20日木曜日

8月13日 同僚と衝突する。

 泥沼だ。イライラする気持ちがいっぱいになって、この日子どもの前で同僚にキレた。英語の授業をボランティアティーチャーがすることになり、正直気分が悪かった。そしてこの日、いきなりそのボランティアが子どもの前で偉そうに

 「今日は英語だけ話す日だぞ。スワヒリ語は話したらいけんぞ。」

 と言う。これに突然カチンとくる。そんなこと聞いてないし、俺は全く知らんぞと思い詰め寄る。

 “ We-, uko na rufusa ya manager? Acha michezo.”
「お前、マネージャーの許可はあるんか。ふざけるなよ。」


 それを聞いたボランティアもキレる。そして子どもの前で喧嘩がはじまる。そいつが悪いことをしたわけではないが、この日の俺はすごくイライラしていた。他の同僚に抑えられ、マネージャーの部屋に呼ばれる。そしてマネージャーやチルドレンズオフィサーが話をする。

 「子どもたちは、両親や周りの大人がケンカしているような背景でここに来てるんだ。先生のあなたたちがケンカをしていたら、子どもはどう安心して生活するの?」

 胸が痛かった。子どものことを考えず、自分のイライラを表に出してしまったことにやるせない気持ちになった。

 「ケン、もし何か言いたいことがあったら、ちゃんと呼びだして子どものいないところで言えばいいんだよ。」

 そう言って温かい言葉をかけてくれた。ボランティアティーチャーは泣いていた。それがまた心が痛かった。そしてその事件は幕を閉じた。自分の荒れた気持ちが前面に出てしまったこの日、私自身が傷つくだけでなく他の人まで傷つけてしまった。これほどまで荒れた時期あったかな・・・。って思えるくらい、最近の私は自分でも安定していないと思う。そんな私の状況を見たマダムがそっと話しかけてくれた。

 「ケン、どんな国の人もね、まちがいはあるんだよ。そうやって人間って成長するの。
  だから気にしなくていいんだよ。ケンはここケニアでがんばってんだから。」

 正直、そんな言葉もあまり耳に入らないほど、その時はいっぱいいっぱいだった。今思えば、温かいなあとおもうが・・・。どんな言葉も今は心に響かない。

2009年8月19日水曜日

8月10日 新たな1週間

 土日の休日を満喫して、また新たな1週間を迎えました。今日から日本からお客さんを迎えるので、しっかり早朝から準備をしてました。この日は新しく授業の時間割を作ろうと考えました。子どもたちの授業の時間をきちんと確保するため、授業時間と担当をきちんと決めました。マネージャーの許可をもらい、私は10月まで算数と体育を教えることになりました。そしてまた11月からこの算数も他の同僚に渡すことになります。

 発想の転換を考えてみました。この8月までほとんど休むことなく馬車馬のように働いていました。人材不足から自分が働かないと思い、毎日の授業やスポーツの指導などがんばってきました。図書館運営や管理も自分一人でしていたし。そこで私の活動を少しずつ、ケニア人の同僚に引き継ぐことにしました。いいきっかけだと思って。

 次の教員が来るまで、授業の大半をやる気のある生活指導のボランティアに引き継ぐ。また図書館経営を暇そうにしている寮父さんに引き継ぐ。私がいなくなる7か月後に、また授業や図書館が機能するように。自分がしたほうが上手にまわるかもしれない。が、ケニア人がそれをすることが大事だと思う。図書館運営の説明をした後、同僚ががんばって本を並べていた。そんな光景を毎日見えるように、この7か月で伝えたいと思う。

 最近、本当に日本に帰りたいと思うことがある。今がここゲタスル更生院に配属されて、一番つらく苦しい時期だと思う。日本に帰ってからの楽しいことを考えようとする、完全は現実逃避。いつからこんな弱い人間になったんだろう。ここ協力隊でいろんな経験をして帰りたいと思っていたが、いったい何を経験して帰るのか、今はまったくわからない。

2009年8月18日火曜日

8月8日 日本食レストランで

 この日はJICA職員さんとの食事会 兼 娯楽。娯楽の内容は今回控えさせていただきます。(もろもろの事情により)今回行った場所は「TOKYOレストラン」という日本食レストランである。韓国人のマスターが経営している、純日本料理屋(てかメニューは圧倒的に日本食が多いが)である。マスターは少し日本語が理解できて、私たちが席に着くとすぐに笑顔で挨拶に来てくれる、そんな気さくなマスターである。

 ここナイロビでは、私が知っているだけで7つの日本食屋がある。ここナイロビにいたら普段から日本食を食べることができる。もちろん値段は少し高めだが、久々の日本食はやっぱりおいしい。この日はカツ丼とチヂミを食べた。そしてビール3杯。私にしては飲みすぎのような気がするが、いろいろあった一週間だったからたくさん飲みました。

 そして娯楽も楽しめたし。いやあ声が嗄れたわ・・・。というわけで、次の週に向けてパワーアップした。やっぱりこういう気晴らしはやっぱり必要だわ。これからも1週間に一回はこうやって飲みたいなあと感じた1日でした。


 ちなみに写真をたくさん撮ったのですが、JICA職員さんの命令で載せることができません。
 あしからず・・・。

2009年8月14日金曜日

8月7日 子どもたちに救われる。




 あまり眠ることができず、朝起きていつものように準備する。半信半疑で、今日も授業があるんだろうと思いながら更生院へ。しかし、自分の期待は砕け散る。

 ソーシャルワーカーのボランティアが、教室の前に立っている。この日から彼が授業をするらしい。マネージャーの判断で教員の私でなく、カウンセリングや生活担当のボランティアが授業をすることに。そして私はというと、彼がしていた子どもの掃除を見る係となる。体の芯まで冷えるような寒い日。子どもたちも早く焚き火をしている場所に行きたそうだ。それでも、無理して大きな声で、子どもたち一人ひとりに声をかける。教室ではそのボランティアが、一生懸命がんばってくれている。それがまた悔しかった。

 10:30、子どもたちを連れて運動場へ。一緒に子どもたちとグラウンドを走り、準備体操。授業案も何も考えてなかったこの日、ふと子どもたちの顔を見る。なんだかすごく、うれしそうだ。そんな笑顔が少しずつ俺の閉ざされた心を開いてくれた。一列に並ばせ、ペアを作り、おんぶリレー。ペアの子を嬉しそうにおんぶして、元気いっぱい走っていく。ペアが重くてつぶれてもなんだか嬉しそう。その姿に、俺も自然と笑えた。

 “ Mwalimu, asante!” 「先生、ありがとう」

 授業後、多くの子どもたちが笑顔で俺にいってくれた。何も知らない子どもたちから出た素直な「Asante(ありがとう)」という言葉。この言葉に正直救われた。英語でなくても、数学でなくても、いや授業でなくてもいい。そこに子どもがいて、何か一笑懸命がんばればいいんだと開き直れた。そんな子どもたちを英語や数学を教えていた時よりも、もっともっと好きになった。

2009年8月13日木曜日

8月6日 衝撃の急展開

 「ケン、あなたはここケニアに何をしに来たの?」
 「あなたは体育を教えるために来たんだろ?
  日本人がケニア人に英語やスワヒリ語を教えるのはおかしいよね?」

 突然だった。あまりの突然のマネージャーの言葉に自分の耳を疑った。

 そんなことは昔からわかっていた。しかし教員がいないという状況で、授業を楽しみにしている子どもたちに自分ができること、それが授業だと思って、この1年間がんばってきた。ところが、この日自分のこの1年間の活動を否定された。ショックや悔しさというより先に、何がなんだかわからなかった。

 マネージャーによると、うちの更生院を管轄するジェンダー・子ども・社会開発省の上司に、日本人がケニアの子どもに英語やスワヒリ語を教えるなんてどういうことなのかと電話で聞かれたらしい。それに驚いたマネージャーが次の日私を呼び出したというわけだ。

 自分の活動をまったく見てもらえず、ただ否定されたような気がした。授業担当の私が授業をしないで誰が授業をするのか・・・、いろいろな感情が入り乱れる中、呆然として家に戻った。知らぬ間に涙が流れていた。自分は授業をしなくていい、そんなことを言われたのは初めてだった。教員になって7年目、必要とされていないことがこんなに心苦しくつらいということを初めて知った。マンネリ化しつつあった授業、でも授業をしないというのは、私にとってものすごくつらかった。

 それでもこの日、気を取り直して更生院に戻って、子どもと一緒に運動場に行った。体育の授業をするためだ。何も知らない子どもたちは、久し振りに教えてもらう体育に笑顔いっぱいだ。そんな笑顔に応えるため、私も精一杯の笑顔を作る。

 しかしこの日から更生院に行く足がどんどん重くなることを、私もうすうす感じながら、なんとかプラス思考でいこうと腹をくくる。その夜、久々に頭のモヤモヤは消えず、眠ることができなかった。

2009年8月8日土曜日

8月5日 「車持ってる?」

“ Mwalimu, uko na gari?” 「先生は車持ってる?」

 車が好きな男の子たちが不意に質問をしてきた。いつもならケニアのこの生活で車は持ってないので、「持ってない」と答えるのだが、この日はなぜか真面目に答えた。

 “ Niko na gari, halafu baba, mama, sister, halafu bibi yangu pia wako nayo”
「持ってるよ。親父にお袋、妹や嫁まで持ってるよ。」
 “ ・・・” 「・・・」
 “ Kwa hivyo, tuko na magari tano.” 「だからうちの家には車が5台あるんだよ。」
 “ Uwongo!(大爆笑)” 「嘘だー!」
 “ Unadanganya!” 「嘘ついてるな!」


 と子どもたちは大爆笑。まったく信じてもらえなかった。

 確かにケニアの家族は一家に一台、いや車があるだけでもかなり恵まれている。うちの職員で車を持っている人は一人もいない。いわば車は、ケニア人のステータスでもある。だからうちの家族が車5台あるって・・・確かにここケニアの感覚で言ったら大金持ちです。この国では何十年も前の車が今でも現役で運転されているのに。帰ってから自分の車をもっと大事に乗ろうと思います。

2009年8月6日木曜日

ケニャイチロー回想記 「教室はいつもきれいにな」

 最近よく思い出す言葉がある。

 「教室はいつもきれいにな。」

 これは6年前、私が教師1年目の時に当時の教頭先生に言われた言葉だ。

 当時の私は勢いだけで、生徒の一人ひとりを見ようとしなかった。自分の教育論が先行して、生徒はこうあるべきだと勝手に生徒を枠にはめようとした。そんなことをしていたので、うまくいくはずがない。1、2年目の学級経営は本当につらかった。

 そんな折、教頭先生が飲みに誘ってくれた。俺の様子を気にかけてくれて、二人で倉敷の居酒屋へ飲みに行った。

 「くろちゃん、焦ったらおえんで。教育は時間がかかるんじゃから。」
 「くろちゃん、教室はいつもきれいにな。

  どんなことがあっても、教室がきれいじゃねえとおえん。」

 そう言って、優しく伝えてくれた。温かい言葉にビールを何杯も飲んだ。
 その当時の教室の様子は散々だった。ぐちゃぐちゃになった机、散乱しているゴミなど。それを教頭先生は見ていた。そのとき何もできない俺が唯一できること、それが教室整備だった。

 2件目に連れて行ってくれたお好み焼き屋。大通りを外れ商店街近くにある小さなお好み焼き屋。

 「ここは倉敷で2番目においしいお好み焼き屋なんじゃ。」

 そう言って連れて行ってくれた。一番はどこだろうと思いながら、突っ込むことはもちろんできない。それでもここのお好み焼きの味は今でも忘れない。むちゃくちゃ温かくて優しい味。

 「な、うまいじゃろ?」

 そう言って笑顔でお好み焼きをほおばる教頭先生がお父さんのように思えた。その日から、毎日生徒が帰った後の放課後、教室に行った。教室を行くことさえも怖くてつらかった時代。放課後一人で教室に行っては、毎日泣きながらゴミを拾い、机を直した。いつか子どもたちはわかってくれる、そう思いながら自分にできる唯一の教室整備を毎日欠かさずにした。

 あれから6年。俺はどう変わったんだろう。今も毎日、更生院の教室の整備は欠かさない。今の俺があるのは、当時の教頭先生のあの言葉があるからといっても過言ではない。更生院の子どもが安心して学習できる場所、安心して生活できる場所として、これからも「教室はいつもきれいに」を実践したい。教育は時間がかかる、だから日々の活動を大切にしていこうと思う。子ども一人ひとりを大切にしていきたいと思う。来年3月、胸をはって当時の教頭先生に会えるよう、これからまた成長していきたい。

2009年8月5日水曜日

8月3日 たった一人の教員

 ゲタスル更生院に赴任して1年がたちました。一職員としてマンパワーとして働いていますが、ついにアカデミックセクション(授業担当)に私一人となりました。この日は、担当の英語と数学だけでなく理科まで教えました。なんと血液の循環・心臓の働きをスワヒリ語と英語で伝えました。

 ふと考えると、初めの要請内容は体育とレクリエーションだったよな・・・と思いながらも授業をする教員がいないので仕方ないですよね。毎日の授業を子どもたちは楽しみにしているし。なかば諦めて活動をしています。

 さて英語の授業は比較級と最上級を教えました。自分たちの身近にあるもので比較と最上の使い分けなど説明し、自己表現活動へと。そうすると子どもたちはおもしろい表現をたくさん書いていました。

 “ My mother is more beautiful than Mr. Ken’s wife.”
 “ Mr. Ken is the shortest in this class.”
 “ My father is more handsome than Mr. Ken.”
 “ My girlfriend is the most beautiful woman in the world.”

 などなど。なぜか俺が登場する文章が多く、子どもたちは楽しそうに英作文をしていました。それでも楽しく理解してくれたら、それでいいやと思いながら次の授業案を考えます。

2009年8月4日火曜日

8月1日 酔っぱらう同僚

 あってはならないこと目の当たりして、この日はある職員と衝突した。許せないことを目の前でされて、我慢できなかった。

 この日は週末勤務の日で早朝から19:00まで更生院で仕事をした。子どもたちは夕方のご飯を終え、ドミトリーに戻る。子どもたちの人数確認をして、鍵をかける。そこでほっと一息。プラスチックのイスに座り、ナイトスタッフ(夜の勤務)が来るまでのんびり待っていた。

 そのとき酒を飲んで酔っ払った職員がやってきた。舌はまわってなく、何を言っているのかもほとんどわからない。足元はふらついていて、いまにも転びそうだ。

 “ Nenda ulale. Umechoka sana.” 「帰って寝てください。疲れてるんだから。」

 そういって優しく対応する。酔っぱらいといえども同僚の一人。何も危害を加えなければそこで終わる予定だった。しかし場面は急展開する。食器の片付けをしている子どもをいきなり叩き始めた。かぶっている帽子を投げ捨て、大きな声でどなりつけ、叩くのだ。
その子どもは震えながら泣いていた。さすがに堪忍袋の緒が切れた。

 “ We-, unafanya aje?” 「おめえ、何しとんじゃ?」
 “ ma, ma, makosa ya nani?” 「だ、だ、誰のまちがいなあ?」
 “ Yako kabisa. Acha michezo.” 「まちがいなく、おめえじゃあ。ふざけるなや」

 そういって、50歳近い職員を叱った。子どもの前とか関係ない。酔って子どもを殴ったこの職員を許すことはできなかった。強引に帰らせ、その後マネージャーに連絡。俺一人ではどうにもできない問題をマネージャーに伝えた。すぐさまマネージャーが家から来て、状況報告。絶対あってはならないことであるということをマネージャーと話し合った。その後ショックが隠せない子どもに言った。

 “ Usijali. Hiyo si makosa yako.” 「気にするな。お前のまちがいじゃないから。」
 

 今回の事件は自分の気持ちを抑えることができず、子どもの前で同僚を叱った。けど、もしまた同じようなことがあったとしたら、やっぱり冷静に対処はできないと思う。この職員が仕事をするときはなるべくこの職員が帰るまで更生院にいようと思う。そう心に決めた。イライラする自分を抑え、手だけは出さないように・・・と思いながら真っ暗になった帰り道を帰った。

2009年8月1日土曜日

7月30日 豆の収穫

 豆(maharagwe)の収穫時期がやってきました。この日はゲタスル更生院敷地内の豆の収穫をするため、子どもと一緒に農場へ。たくさんの豆を豆がらから取り出し、豆ともみ殻を分ける作業を行った。

 もちろんすべて手作業。機械なんてものは存在しません。豆を取り出すのも、分けるのもすべて手作業です。これがけっこう大変なんです。私も微力ながら手伝いました。落ちている豆を拾ったり、豆ともみ殻を分けるために、何度も豆を容器に移しかえたり。それでも子どもと楽しく会話をしながら仕事ができたのはよかった。

 この豆たちは一部は子どもたちのご飯、大半は更生院に敷地内に住む家族に分けられます。すべて子どもたちのところにいかないのは微妙ですが、それでも出来たての豆の煮物をしばらく食べることができそうなのでうれしいです。

 ケニアの代表的な食材の一つ豆は大事な食料源です。そんな豆の一粒も無駄にはしません。大事に収穫した豆が、ケニア人のパワーの源です。