2010年4月17日土曜日

最終回 ケニャイチロー先生 母国に帰る

 日本に帰って、早3週間以上が過ぎてしまった。今はケニアにいたことがまるで夢だったかのような、そんな不思議な感覚に包まれている。

 新しい職場倉敷市の中学校(高橋大輔選手の母校)に勤務し、毎日を忙しくしている。それもケニアの経験があるから、久々の日本の学校がまた楽しい。

 ケニアの生活とはまったくちがう生活。車を運転して通勤する学校、きれいな道路、家に帰ると用意してある妻の手料理、温かいお風呂、そして大きくなった妻のお腹(まさかのmade in Kenya)。

 父親のように接しようとがんばってきた私だが、7月には本当の父親になる予定だ。仕事場では中学校1年生の担任として、バドミントン部の顧問として、また英語の教師として。そして家庭では、良き夫、そして生まれてくる子供の良き父親として、これからも成長していきたい。

 今まで応援してくださったみなさんには大変感謝している。地元の岡山で応援してくださった方、大学時代の新潟の友達、協力隊の同期、本当に仲間の存在に支えられた2年間だった。本当にありがとう。また必ず会いましょう。

 そんな最後の日記でした。また少しでいいので、ケニャイチローのこと思い出してください。

2010年3月21日日曜日

3月20日 Kwaheri Party


 隊員主催のKwaheri Party(送別会)。ついにこの日が来てしまった。帰国前日の20日。夕方から送別会開始。今回の会を主催するのは、一緒にケニアに来た20年度1次隊の同期たち。一緒に来たのに、先に帰る隊員として送られる、うれしさよりもむしろ寂しさのほうが多かった。一生懸命準備する同期たちを横目に、心に埋まりそうになる悲しみをごまかすのに必死だった。

 たくさんの手作りのスライドショー、ムービー、そのそれぞれにたくさんのみんな想いが込められている。そして最後の挨拶。

 「本当に一緒に来た同期たちと、一緒に帰りたかった。」

 これが本音だった。現職の学校の教員ということで4月の新学期に間に合うように帰国する。一緒に来た同期たちより3カ月早く帰国するのだ。これが本当に悲しかった。見慣れた顔、訓練から一緒に苦しい時期を過ごした仲間、病気になったときお粥を作ってくれたり水や果物を買ってくれたりした仲間、一緒にサファリに行った仲間、たくさんの思い出ができた。

 「くろちゃん」

 そう言って、楽しく会話していた家族のような仲間と明日から話もできなくなる。2年間一緒に過ごした仲間との別れ。何よりも自分にとってつらいことだった。身内ということもあり、涙が我慢できなかった。次から出てくる涙を、お酒と一緒に飲み、みんなと最後の別れを惜しんだ。

 ありがとう。同期の仲間がいなかったら俺は1年9カ月がんばれてなかったと思う。大事な仲間であり、一生ものの親友。また日本での再会を夢見て、明日は笑って別れることにする。この協力隊で得た最高の宝物、それは仲間。これからもずっと仲間。ありがとう。

3月17日 子供たちとの別れ


 この日は更生院と任地カベテとのお別れの日。朝から部屋の片づけをして、隊員ドミトリーに行くために荷物をまとめる。眠い目をこすりながら、最後の挨拶のために更生院に向かう。子どもたちはいつもの朝の掃除、朝食の準備に忙しくしている。そんな毎日の光景がこの日から見ることができない、と思うと胸が痛むように苦しくなる。1年9カ月の間日本に帰らず、ずっとここゲタスル更生院で活動した。土日もクリスマスも正月も。
 
 “ Nitaondoka leo. Si uwongo.” 「今日、私は出発します。嘘じゃないよ。」
 “ Ahaaaaa.” 「あああ」


 と子どもたちは悲しそうに返事をする。ずっと授業を見てきたし、空いている時間には一人ひとりとキャッチボールをした。そんな私は子どもたちにとってどんな存在だったのだろう?
 
 “ Mwalimu, ninakumiss sana.” 「先生、いなくなると寂しいよ。」

 そう言って、何人もの子どもたちが言ってくれた。今にも溢れそうになる涙をぐっとこらえ、子どもたち一人ひとりにこう伝える。

 “ Asante. Afia nzuri, halafu usome vizuri. Maisha yako itakuwa poa.”
「ありがとう。健康に気をつけて、しっかり勉強せいな。きっとお前の将来は良くなる。」

 そしてゲタスル更生院の前で立ち止まる。初めて来たときからこの日まで、いいことも悪いこともたくさんあった職場。いろんな思い出が頭の中で思い浮かぶ。必死に涙をこらえ、大きく一礼。そして後ろを振り向いた瞬間、我慢していた涙が一気に噴き出した。それだけ中身の濃い1年9カ月で、活動を続けてきた更生院。自分にもたくさんの種がゲタスル更生院で与えられた。今後日本に帰って、この種を大事に育てようと思う。花を咲かせるのも枯らすのも自分次第。俺も子どもたちに負けないよう、自分の種を育てる。

 そして毎日通っていたカベテの小さな小さな村。ほとんど毎日行っていた喫茶店、その喫茶店で働いていた大好きな子どもたち、豚屋のお兄ちゃん、靴直しのやらしいおじさん、野菜をキオスクで売っているおばちゃん、肉屋の若い兄ちゃん、その人すべてに最後のあいさつ。絶対忘れない、このカベテの村も、そこにいる人たちも。俺の1年9カ月を支えてくれたたくさんケニアの人たち、本当にありがとう。

3月11,12日 送別会



 終わりが近づいてきた。11日には任地カベテの隊員メンバーが集まっての送別会。そして12日にはゲタスル更生院での送別会。自分のために送別会を開いてくれるのは、なんだか不思議な気分だ。まさか自分が送り出させれるほうになるなんて。いつも送り出すほうだったのに。

 カベテの送別会では我が家に、シンヤ・キョウコさん・片山君が集合して、いろんな話をしました。病気のときも活動に悩んだ時も、いつも励ましてくれたメンバーだ。生意気な弟のような存在のシンヤは、いつのまにか大事な親友になっていた。キョウコさんはいつも笑顔で話しかけてくれ、こちらのたくさんの話を優しく受け止めてくれた。片山君もいつも温かく話を聞いてくれた。そんな大事な仲間との別れが近づいていた。

そしてゲタスル更生院での送別会。たくさんの先生が集まり、私のために送別会が開かれた。たくさんの料理とソーダを飲みながら語る。今までの笑い話や思い出など。2時間という時間があっという間に流れた。そしてケニア人の先生たちが一貫して最後のコメントとして言ってくれたこと。

 “ Upunguze hasira.” 「怒りを少なくすること」
 “ Tuko Pamoja.” 「私たちはずっと一緒です。」


 この2年間の私は、ことあるごとに生徒や同僚と衝突した。そのたびにいつもケニア人の先生たちに教えてもらったこと。それは人間はみんなまちがいがあるということ。そしてそれをゆっくり見ていこうとすること、私がケニア人に何か教えたのでなく、ケニア人から教えてもらったことのほうが多い。

 そしてみんなが言ってくれたTuko Pamoja。ケンがどこにいっても私たちはつながっているということだ。その言葉がすごく嬉しかった。自分を赴任当初から同僚として温かく迎えてくれた、痩せてくるとごはんをいつも大盛りにしてくれた、悩んだ時はいつも温かく話を聞いてくれた、そんな同僚が大好きだ。
 
「衝突したこともケンカしたことも、怒ったこともその負の感情のすべてをケニアに置いて帰ってね」

と、あるマダムが言ってくれた。話を聞いているうちいろんなことを思い出して、自然と涙が流れていた。同僚の前では泣かないと思っていたのに、涙がこぼれた。このゲタスルでの思い出は、これから一生忘れることはないだろう。この2年間で800人以上の更生院の子どもに授業をはじめ、将来の夢を持つこと、Asanteの大切さなど伝えてきた。その小さな芽たちが、いつか将来大輪の花を咲かせますように。そう日本から祈る。

2010年3月11日木曜日

3月10日 とうもろこしの収穫

 とうもろこしの収穫の時期を迎えた。ここゲタスル更生院で食べる最後のマヒンディ(白いとうもろこし)。お腹がすいてたら食べてた固い焼きトウモロコシのおかげで、今ではずいぶんと顎まわりの筋肉がつき、少し顔がごつくなった。

 この日は配属長から子どもたちへのプレゼントとして、一人1本のトウモロコシが配られた。どさくさにまぎれて、2本も3本もとうもろこしをとっていこうとする小僧ども。そんなやつらには、いつもの愛のげんこつ。いったいこの2年間で何人の小僧を殴ってきたのだろう・・・。考えただけでも恐ろしい。日本だったらまちがいなく懲戒免職だな。気をつけなきゃ、日本では。

 さて夕方のスポーツの時間は焼きトウモロコシの時間になる。それぞれの場所でたき火をして、トウモロコシをやく。食べざかりの小僧たちは遊ぶより食べることのほうが好きみたいである。私がいつものようにキャッチボールをしようとゴムボールを持ってきても、それに見向きもせず、トウモロコシを焼く。「あのー、もう俺が更生院にいるのも5日間なんですけど・・・。」そう思うが、誰もキャッチボールをしてくれない。少しさびしい。

 そうするとある男の子が、大きなバッタを捕まえて見せてくれた。大きくて立派なバッタだ。俺も小さい頃はショウリョウバッタやイナゴを捕まえては、虫かごに入れてたっけ。

 “ Mwalimu, hii ni tamu sana. Kama kuku.”
「先生、これすごくおいしいんだよ。鶏肉みたいで。」


 ・・・!?た、食べるんですか!?それもどう考えても鶏肉じゃないし。そんな私の考えをよそに、小僧たちはたき火にバッタを投げ入れる。何人もの小僧たちがおいしそうに焼きバッタを見ている。そして少し焦げたところで出来上がり。ケニアの小僧たちにとっては、なんでも食べ物になるんだな。キリンもインパラも、ウサギも食べてしまう彼らだからなあ。そんな私もここケニアでダチョウやワニを食べていますが・・・。

 ところでずっとこの2年間愛用していたデジカメが壊れてしまいました。不注意で落としてしまったのですが。残り11日なのに。まあ気にしない気にしない。ここらへんのいい加減さは、いい意味でケニア人化してきてると思う。

 残り11日。

2010年3月9日火曜日

3月8日 紙芝居「MOMOTARO」


 いよいよゲタスル更生院で過ごす最後の1週間が始まった。とくになんの心境の変化もなく、この次の日曜日に帰国するという実感もなく、また新たな1週間が始まったなあという感覚だ。

 今週はテストが終了したこともあり授業がない。そのため教室に入って、自由に活動することができる。そこで今回は紙芝居「MOMOTARO」を子どもたちに見せることにした。

 この紙芝居「MOMOTARO」は先月末、地元倉敷市の国際交流協会が企画して作成されたもので、3歳から60歳までの倉敷市民30名がその一枚一枚の絵に色を塗ってくれたものである。後ろには英語とスワヒリ語の両方の文章があり、ゲタスル更生院の子どもたちでも楽しく理解できるものとなっていた。
 
 “ Once upon a time, ・・・” 「昔々あるところに、・・・」

 と初めに英語で私が紙芝居を披露。初めて見る紙芝居に子どもたちの視線は釘づけになる。日ごろはおしゃべりをする小憎たちもまったく口をひらかず、真剣に聞き入る。日本の昔話にかなり興味をもっているようだ。次にスワヒリ語バージョンで話をする。英語が理解できない小憎もいるので、スワヒリ語の文章があるのはありがたい。

 その後、何人かの生徒に紙芝居を読ませる。この紙芝居って、けっこう難しい。台詞の場面では、その感情を入れたり、声を変えたりして読まないと雰囲気が出てこないし、下を見すぎて読んでしまうと声が通らないし。紙芝居を上手に読むためには、かなりの技術が必要である。それでも小憎たちは初めての紙芝居を楽しんでいた。

 この紙芝居はゲタスル更生院で披露した後、カベテ更生院、ナイロビ孤児院にも持っていく予定だ。なるべく多くのケニアの子どもたちに日本の文化・紙芝居を体験させ、岡山県の伝統的な昔話「ももたろう」を伝えていけたらなあと思う。 ところでケニアでは、「マンゴたろう」のほうがしっくりくるのかなあ・・・。お供の動物はライオンとサイとゾウ。むちゃくちゃ強そうだ。きび団子のかわりにバナナをあげるのかなあ。と勝手に想像してしまう私です。

残り13日。

2010年3月8日月曜日

3月3日 実り始めた "Asante"


 私がもう一つ、2年前からゲタスルの子どもたちに巻いてきた種。
 それは “Asante”「ありがとう」という言葉の種だ。

 ここゲタスルで活動をした当初、あることに衝撃を受けた。それは、子どもたちが “Asante”や “Pole”「ごめん」という当たり前の言葉が言えないということだった。感謝の気持ちも、謝罪の気持ちも表わさない子どもたち。いや、素直にそのような想いを言葉に出していうことは、子どもたちのプライドが許さなかったのだろう。そこからほぼ毎日のように子どもたちに言い続けた言葉、それが “Asante”だった。

 毎日の何気ない生活の中で、お客さんが来て一緒に行うイベントの中で、カウンセリングの中で、いろいろな場面で一貫して言い続けた言葉だ。素直に感謝の気持ちを表に出せること、何も取り柄のない私にとって、唯一子どもたちにできたことは、この “Asante”と言い続けることだったのだろう。

 そしてその種がまっすぐ育ってきたことを今になって実感する。少しずつ前いた子どもたちから今の子どもたちへと伝えられた言葉。たった一言の言葉。それが今はここゲタスル更生院に広がっている。

 図書館での読書の後や授業の後、 “Asante”
 運動場の時間、一緒にキャッチボールをした後、 “Asante”
 ゲタスル更生院に来たお客さんから何かもらったときに、 “Asante”
 友達同士で助けあったとき、 “Asante”

 子どもたちの中に自然に、素直に感謝の気持ちを表すことが広がり始めた。そのことが一番の私の活動の成果。3カ月間しか滞在しないゲタスル更生院で、子どもたちに身につけてほしいことが、今芽を出し始めた。何気ないことだが、当たり前のことだが、子どもたちに一番大切な何かを残せたのではないかと強く思う。最後、2週間後、俺も子どもたちに伝えよう。心の底から “Asante”。