2010年4月17日土曜日

最終回 ケニャイチロー先生 母国に帰る

 日本に帰って、早3週間以上が過ぎてしまった。今はケニアにいたことがまるで夢だったかのような、そんな不思議な感覚に包まれている。

 新しい職場倉敷市の中学校(高橋大輔選手の母校)に勤務し、毎日を忙しくしている。それもケニアの経験があるから、久々の日本の学校がまた楽しい。

 ケニアの生活とはまったくちがう生活。車を運転して通勤する学校、きれいな道路、家に帰ると用意してある妻の手料理、温かいお風呂、そして大きくなった妻のお腹(まさかのmade in Kenya)。

 父親のように接しようとがんばってきた私だが、7月には本当の父親になる予定だ。仕事場では中学校1年生の担任として、バドミントン部の顧問として、また英語の教師として。そして家庭では、良き夫、そして生まれてくる子供の良き父親として、これからも成長していきたい。

 今まで応援してくださったみなさんには大変感謝している。地元の岡山で応援してくださった方、大学時代の新潟の友達、協力隊の同期、本当に仲間の存在に支えられた2年間だった。本当にありがとう。また必ず会いましょう。

 そんな最後の日記でした。また少しでいいので、ケニャイチローのこと思い出してください。

2010年3月21日日曜日

3月20日 Kwaheri Party


 隊員主催のKwaheri Party(送別会)。ついにこの日が来てしまった。帰国前日の20日。夕方から送別会開始。今回の会を主催するのは、一緒にケニアに来た20年度1次隊の同期たち。一緒に来たのに、先に帰る隊員として送られる、うれしさよりもむしろ寂しさのほうが多かった。一生懸命準備する同期たちを横目に、心に埋まりそうになる悲しみをごまかすのに必死だった。

 たくさんの手作りのスライドショー、ムービー、そのそれぞれにたくさんのみんな想いが込められている。そして最後の挨拶。

 「本当に一緒に来た同期たちと、一緒に帰りたかった。」

 これが本音だった。現職の学校の教員ということで4月の新学期に間に合うように帰国する。一緒に来た同期たちより3カ月早く帰国するのだ。これが本当に悲しかった。見慣れた顔、訓練から一緒に苦しい時期を過ごした仲間、病気になったときお粥を作ってくれたり水や果物を買ってくれたりした仲間、一緒にサファリに行った仲間、たくさんの思い出ができた。

 「くろちゃん」

 そう言って、楽しく会話していた家族のような仲間と明日から話もできなくなる。2年間一緒に過ごした仲間との別れ。何よりも自分にとってつらいことだった。身内ということもあり、涙が我慢できなかった。次から出てくる涙を、お酒と一緒に飲み、みんなと最後の別れを惜しんだ。

 ありがとう。同期の仲間がいなかったら俺は1年9カ月がんばれてなかったと思う。大事な仲間であり、一生ものの親友。また日本での再会を夢見て、明日は笑って別れることにする。この協力隊で得た最高の宝物、それは仲間。これからもずっと仲間。ありがとう。

3月17日 子供たちとの別れ


 この日は更生院と任地カベテとのお別れの日。朝から部屋の片づけをして、隊員ドミトリーに行くために荷物をまとめる。眠い目をこすりながら、最後の挨拶のために更生院に向かう。子どもたちはいつもの朝の掃除、朝食の準備に忙しくしている。そんな毎日の光景がこの日から見ることができない、と思うと胸が痛むように苦しくなる。1年9カ月の間日本に帰らず、ずっとここゲタスル更生院で活動した。土日もクリスマスも正月も。
 
 “ Nitaondoka leo. Si uwongo.” 「今日、私は出発します。嘘じゃないよ。」
 “ Ahaaaaa.” 「あああ」


 と子どもたちは悲しそうに返事をする。ずっと授業を見てきたし、空いている時間には一人ひとりとキャッチボールをした。そんな私は子どもたちにとってどんな存在だったのだろう?
 
 “ Mwalimu, ninakumiss sana.” 「先生、いなくなると寂しいよ。」

 そう言って、何人もの子どもたちが言ってくれた。今にも溢れそうになる涙をぐっとこらえ、子どもたち一人ひとりにこう伝える。

 “ Asante. Afia nzuri, halafu usome vizuri. Maisha yako itakuwa poa.”
「ありがとう。健康に気をつけて、しっかり勉強せいな。きっとお前の将来は良くなる。」

 そしてゲタスル更生院の前で立ち止まる。初めて来たときからこの日まで、いいことも悪いこともたくさんあった職場。いろんな思い出が頭の中で思い浮かぶ。必死に涙をこらえ、大きく一礼。そして後ろを振り向いた瞬間、我慢していた涙が一気に噴き出した。それだけ中身の濃い1年9カ月で、活動を続けてきた更生院。自分にもたくさんの種がゲタスル更生院で与えられた。今後日本に帰って、この種を大事に育てようと思う。花を咲かせるのも枯らすのも自分次第。俺も子どもたちに負けないよう、自分の種を育てる。

 そして毎日通っていたカベテの小さな小さな村。ほとんど毎日行っていた喫茶店、その喫茶店で働いていた大好きな子どもたち、豚屋のお兄ちゃん、靴直しのやらしいおじさん、野菜をキオスクで売っているおばちゃん、肉屋の若い兄ちゃん、その人すべてに最後のあいさつ。絶対忘れない、このカベテの村も、そこにいる人たちも。俺の1年9カ月を支えてくれたたくさんケニアの人たち、本当にありがとう。

3月11,12日 送別会



 終わりが近づいてきた。11日には任地カベテの隊員メンバーが集まっての送別会。そして12日にはゲタスル更生院での送別会。自分のために送別会を開いてくれるのは、なんだか不思議な気分だ。まさか自分が送り出させれるほうになるなんて。いつも送り出すほうだったのに。

 カベテの送別会では我が家に、シンヤ・キョウコさん・片山君が集合して、いろんな話をしました。病気のときも活動に悩んだ時も、いつも励ましてくれたメンバーだ。生意気な弟のような存在のシンヤは、いつのまにか大事な親友になっていた。キョウコさんはいつも笑顔で話しかけてくれ、こちらのたくさんの話を優しく受け止めてくれた。片山君もいつも温かく話を聞いてくれた。そんな大事な仲間との別れが近づいていた。

そしてゲタスル更生院での送別会。たくさんの先生が集まり、私のために送別会が開かれた。たくさんの料理とソーダを飲みながら語る。今までの笑い話や思い出など。2時間という時間があっという間に流れた。そしてケニア人の先生たちが一貫して最後のコメントとして言ってくれたこと。

 “ Upunguze hasira.” 「怒りを少なくすること」
 “ Tuko Pamoja.” 「私たちはずっと一緒です。」


 この2年間の私は、ことあるごとに生徒や同僚と衝突した。そのたびにいつもケニア人の先生たちに教えてもらったこと。それは人間はみんなまちがいがあるということ。そしてそれをゆっくり見ていこうとすること、私がケニア人に何か教えたのでなく、ケニア人から教えてもらったことのほうが多い。

 そしてみんなが言ってくれたTuko Pamoja。ケンがどこにいっても私たちはつながっているということだ。その言葉がすごく嬉しかった。自分を赴任当初から同僚として温かく迎えてくれた、痩せてくるとごはんをいつも大盛りにしてくれた、悩んだ時はいつも温かく話を聞いてくれた、そんな同僚が大好きだ。
 
「衝突したこともケンカしたことも、怒ったこともその負の感情のすべてをケニアに置いて帰ってね」

と、あるマダムが言ってくれた。話を聞いているうちいろんなことを思い出して、自然と涙が流れていた。同僚の前では泣かないと思っていたのに、涙がこぼれた。このゲタスルでの思い出は、これから一生忘れることはないだろう。この2年間で800人以上の更生院の子どもに授業をはじめ、将来の夢を持つこと、Asanteの大切さなど伝えてきた。その小さな芽たちが、いつか将来大輪の花を咲かせますように。そう日本から祈る。

2010年3月11日木曜日

3月10日 とうもろこしの収穫

 とうもろこしの収穫の時期を迎えた。ここゲタスル更生院で食べる最後のマヒンディ(白いとうもろこし)。お腹がすいてたら食べてた固い焼きトウモロコシのおかげで、今ではずいぶんと顎まわりの筋肉がつき、少し顔がごつくなった。

 この日は配属長から子どもたちへのプレゼントとして、一人1本のトウモロコシが配られた。どさくさにまぎれて、2本も3本もとうもろこしをとっていこうとする小僧ども。そんなやつらには、いつもの愛のげんこつ。いったいこの2年間で何人の小僧を殴ってきたのだろう・・・。考えただけでも恐ろしい。日本だったらまちがいなく懲戒免職だな。気をつけなきゃ、日本では。

 さて夕方のスポーツの時間は焼きトウモロコシの時間になる。それぞれの場所でたき火をして、トウモロコシをやく。食べざかりの小僧たちは遊ぶより食べることのほうが好きみたいである。私がいつものようにキャッチボールをしようとゴムボールを持ってきても、それに見向きもせず、トウモロコシを焼く。「あのー、もう俺が更生院にいるのも5日間なんですけど・・・。」そう思うが、誰もキャッチボールをしてくれない。少しさびしい。

 そうするとある男の子が、大きなバッタを捕まえて見せてくれた。大きくて立派なバッタだ。俺も小さい頃はショウリョウバッタやイナゴを捕まえては、虫かごに入れてたっけ。

 “ Mwalimu, hii ni tamu sana. Kama kuku.”
「先生、これすごくおいしいんだよ。鶏肉みたいで。」


 ・・・!?た、食べるんですか!?それもどう考えても鶏肉じゃないし。そんな私の考えをよそに、小僧たちはたき火にバッタを投げ入れる。何人もの小僧たちがおいしそうに焼きバッタを見ている。そして少し焦げたところで出来上がり。ケニアの小僧たちにとっては、なんでも食べ物になるんだな。キリンもインパラも、ウサギも食べてしまう彼らだからなあ。そんな私もここケニアでダチョウやワニを食べていますが・・・。

 ところでずっとこの2年間愛用していたデジカメが壊れてしまいました。不注意で落としてしまったのですが。残り11日なのに。まあ気にしない気にしない。ここらへんのいい加減さは、いい意味でケニア人化してきてると思う。

 残り11日。

2010年3月9日火曜日

3月8日 紙芝居「MOMOTARO」


 いよいよゲタスル更生院で過ごす最後の1週間が始まった。とくになんの心境の変化もなく、この次の日曜日に帰国するという実感もなく、また新たな1週間が始まったなあという感覚だ。

 今週はテストが終了したこともあり授業がない。そのため教室に入って、自由に活動することができる。そこで今回は紙芝居「MOMOTARO」を子どもたちに見せることにした。

 この紙芝居「MOMOTARO」は先月末、地元倉敷市の国際交流協会が企画して作成されたもので、3歳から60歳までの倉敷市民30名がその一枚一枚の絵に色を塗ってくれたものである。後ろには英語とスワヒリ語の両方の文章があり、ゲタスル更生院の子どもたちでも楽しく理解できるものとなっていた。
 
 “ Once upon a time, ・・・” 「昔々あるところに、・・・」

 と初めに英語で私が紙芝居を披露。初めて見る紙芝居に子どもたちの視線は釘づけになる。日ごろはおしゃべりをする小憎たちもまったく口をひらかず、真剣に聞き入る。日本の昔話にかなり興味をもっているようだ。次にスワヒリ語バージョンで話をする。英語が理解できない小憎もいるので、スワヒリ語の文章があるのはありがたい。

 その後、何人かの生徒に紙芝居を読ませる。この紙芝居って、けっこう難しい。台詞の場面では、その感情を入れたり、声を変えたりして読まないと雰囲気が出てこないし、下を見すぎて読んでしまうと声が通らないし。紙芝居を上手に読むためには、かなりの技術が必要である。それでも小憎たちは初めての紙芝居を楽しんでいた。

 この紙芝居はゲタスル更生院で披露した後、カベテ更生院、ナイロビ孤児院にも持っていく予定だ。なるべく多くのケニアの子どもたちに日本の文化・紙芝居を体験させ、岡山県の伝統的な昔話「ももたろう」を伝えていけたらなあと思う。 ところでケニアでは、「マンゴたろう」のほうがしっくりくるのかなあ・・・。お供の動物はライオンとサイとゾウ。むちゃくちゃ強そうだ。きび団子のかわりにバナナをあげるのかなあ。と勝手に想像してしまう私です。

残り13日。

2010年3月8日月曜日

3月3日 実り始めた "Asante"


 私がもう一つ、2年前からゲタスルの子どもたちに巻いてきた種。
 それは “Asante”「ありがとう」という言葉の種だ。

 ここゲタスルで活動をした当初、あることに衝撃を受けた。それは、子どもたちが “Asante”や “Pole”「ごめん」という当たり前の言葉が言えないということだった。感謝の気持ちも、謝罪の気持ちも表わさない子どもたち。いや、素直にそのような想いを言葉に出していうことは、子どもたちのプライドが許さなかったのだろう。そこからほぼ毎日のように子どもたちに言い続けた言葉、それが “Asante”だった。

 毎日の何気ない生活の中で、お客さんが来て一緒に行うイベントの中で、カウンセリングの中で、いろいろな場面で一貫して言い続けた言葉だ。素直に感謝の気持ちを表に出せること、何も取り柄のない私にとって、唯一子どもたちにできたことは、この “Asante”と言い続けることだったのだろう。

 そしてその種がまっすぐ育ってきたことを今になって実感する。少しずつ前いた子どもたちから今の子どもたちへと伝えられた言葉。たった一言の言葉。それが今はここゲタスル更生院に広がっている。

 図書館での読書の後や授業の後、 “Asante”
 運動場の時間、一緒にキャッチボールをした後、 “Asante”
 ゲタスル更生院に来たお客さんから何かもらったときに、 “Asante”
 友達同士で助けあったとき、 “Asante”

 子どもたちの中に自然に、素直に感謝の気持ちを表すことが広がり始めた。そのことが一番の私の活動の成果。3カ月間しか滞在しないゲタスル更生院で、子どもたちに身につけてほしいことが、今芽を出し始めた。何気ないことだが、当たり前のことだが、子どもたちに一番大切な何かを残せたのではないかと強く思う。最後、2週間後、俺も子どもたちに伝えよう。心の底から “Asante”。

2010年3月7日日曜日

3月2日 表れはじめた変化

 いつもの風景。いつもの子どもたちとのやりとり。そのいつも通りのことが愛しく感じる。久しぶりにゲタスルに来て、そう感じたこの日。同僚との何気ない会話、更生院の子どもたちとの他愛無いやりとり。マンネリ化して毎日が、少し外に出ることで新鮮に思え、またその時間を大切にできる。この新鮮な感じが好きだ。

 次の日から、最後の大仕事、子どもたちの他の更生院への移動前のテストが始まる。今いる子どもたちが私がここの更生院で受け持つ最後の子どもたちになる。今思えば、本当にこの2年間苦労した。愛情を持って子どもたちに接することなんて、正直できなかったのではないか・・・。ほぼ毎日、子どものまちがいに対し叱り殴っていた。愛情よりも憎しみのほうが多かったのでは・・・。そんな苦しい2年間だった。

 コミュニケーション能力の不足、子どもたちの予想を超える悪さ、ケニアの文化や習慣のちがい、すべてが今思うと私に重くのしかかった。しかしだからこそ、今の自分がいるのではないかと感じる時もある。

 さてゲタスルに帰ってきて、ある変化に気付いた。それは子どもたちの自主性

 “Mwalimu, nataka kusoma kitabu.” 「先生、本を読みたい。」

 そう言って、子どもたちが近寄ってくる。図書館のカギを開けてやると、そこからはもう自分たちですべてができる。何も言われなくても、ある子どもはカウンターに座り、自主的に図書館の仕事をする。他の子どもたちは自分の読みたい本を見つけては、自主的に本を読み始める。あるものはノートと鉛筆を借りに来て、そこから自主的に自習を始める。すべて私から言われたことでなく、自分たちで自主的にしていることだ。今では私に言われなくても、自然と図書館に集まるようになり、自習をしたり本を読んだりするようになった。

 2年前から何度もまいてきた自主性という種。育ってきたと思ったら、何度も何度も裏切られ枯れていったこともあった。しかし、ようやく少しずつ真っ直ぐに芽が出てきたのだ。まだまだ安定してない成長過程の芽だけど、いつかしっかり地面に根をおろし、素敵な花が咲くよう願いたい。子どもたちの未来が、自分たちの手で輝くものになるように。

2010年3月5日金曜日

ケニア西部旅行記


前日からの続きで、ケニア西部の旅行をざっと紹介します。

2月22日 エルドレット
 エルドレットに到着。ケニア隊員哲平君の任地にお邪魔する。
 哲平君が生活しているLewa Children’s Home(レワ孤児院)を案内してもらう。
 夕食にスパゲティミートソースをごちそうになる。
 経営している牧場で作ったmaziwa lala(飲むヨーグルト)をごちそうになる。
 この日は早めに就寝。

2月23日 エルドレット
 午前中、哲平君の活動先の学校に行って、授業を見学する。
 一緒に授業の体育に参加し、体を動かす。
 太陽のまわりに丸い虹が出る。人生で初めてそんな虹を見る。
 牛とたわむれる孤児院の子どもたちと接する。
 牧場やチーズ工場などを見学。
 エルドレットのタウン散策。ホテルのレストランで、昼からビール。
 晩ごはんとしての日本食をスタッフにごちそうするため、料理をする。
 夜まで語らう。そして就寝。

2月24日 エルドレット~カカメガ~キスム
 朝、チーズトーストを食べる。とろけるほどうまい。そしてマタツでカカメガに向かう。
 カカメガに到着。カカメガ更生院、シクサ少年院を訪れる。
 更生院では、子どもたちから大歓迎を受け、一緒にギゼリを食べる。
 少年院では、院長からこれから2年間少年院ではたらかないかとスカウトされる。
 キスムに到着後、マタツステージでストリートチルドレンの多さに驚く。
 人生で初めて、ケニア人にペットボトルを投げつけられる。(怒)
 ケニア隊員リーダーこと篠田くん(新潟大後輩)の家にお邪魔する。
 スパゲティミートソースをごちそうになり、語りながら知らぬ間に寝てしまう。

2月25日 キスム~ケリチョ
 初めにキスム博物館を見学。その後マタツでケリチョに向かう。
 ケリチョに到着後、ホテルの部屋を確保し、ケリチョ更生院へと向かう。
 ケリチョ更生院でも大歓迎を受ける。子どもたちと語らう。
 夕方、小腹がすいたので焼きトウモロコシを購入。喫茶店に入り、チャイを飲む。
 夕食時、レストランに入り、ウガリとチキン入りケニアスープを食す。
 ホテルに帰り、即就寝。

2月26日 ケリチョ~ナイロビ
 お茶畑として有名なケリチョをあとにし、ナイロビに帰る。
 4時間、無性にトイレに行きたくなり、お腹も痛くなる。
 終点場所まで我慢できず、途中のダウンタウン(治安悪)で下車。
 古びた車修理工場に入り、トイレを借りる。間一髪セーフ。
 徒歩で大きな荷物を背負ってタウンの中心部に向かう。けっこう危険知らず・・・。
 そしてタウンに無事到着。

 というような1週間の旅行だった。ウガンダだけでなくケニア西部も満喫できた。日本に帰ってから東アフリカのことを伝えたいと思うので、多くのことを知っておくのは大事なことだと思っている。おそらく一人旅はこれで最後だろう。

2010年3月4日木曜日

ウガンダ旅行記


2月19日 ケニア~ウガンダ
 ケニア~ウガンダ・エンテベ空港到着。
 JICA事務所に行き、ウガンダ隊員のコミュニティ先のクラフトやビーズ細工を買う。
 そこで同期隊員タロー君(建設機械)と合流。タロー君の任地ジンジャへ向かう。
 途中、売り子が持っている肉の串焼きを買う。
 ジンジャに着き、人生初の自転車タクシーに乗って、ナイル川源流を見に行く。
 帰り、人生初のバイクタクシーに乗る。けっこう怖い。
 ジンジャの町に帰り、ナイルスペシャルというビールと肉の串焼きで乾杯。
 他のウガンダ隊員とインド料理を食べて、飲んで語る。
 夜中もジンジャのタウンを歩く。慣れていないせいか、ドキドキする。

2月20日 ジンジャ~ナムトゥンバ~シピ
 朝からあいにくの雨。タロー君、まったく外出する気にならずダラダラ。
 小雨になり、ようやく同期隊員桐ちゃんがいるナムトゥンバへ移動。肉の串焼きを買う。
 ナムトゥンバ到着。バイクタクシーで桐ちゃん(村落開発)の活動するコミュニティへ。
 石鹸作りを見学。人生初となるジャックフルーツに挑戦。けっこううまい。
 コミュニティ散策。井戸を見たり、JICA笑顔のプロジェクトで建設中の学校を見学。
 ウガンダのローカル料理をごちそうになる。そして大都市ムバレに向かう。
 ムバレからシピへ。人生初の乗り合いぎゅうぎゅうタクシーに乗る。
 5人乗りの乗用車に大人7人(前に3人、後ろに4人)乗る。
 私は後ろに座ったが、一緒に乗ったウガンダ人のママが巨漢のため、つぶれそうになる。
 シピに到着。シピリバーロッジに宿泊。そこで同期隊員ゆっきーと合流。
 素敵な夕食のあと、遅くまで飲みながら語る。恋愛ネタ中心。

2月21日 シピ~カプチョルワ (おふくろの誕生日)
 滝を見ながら、おしゃれな朝食をいただく。
 お腹いっぱいになり、ウガンダ隊寝始める。
 タロー君が任地へと帰る。3人はシピ滝散策ツアーに出かける。
 思っていたよりもシピ滝が大きく、立派なため感動する。シピ空中ブランコを体験。
 滝をロープで下るアクティビティをしてみないかといわれ、ビビる。(結局してない)
 そして人生2回目となるヒッチハイクでカプチョルワへ移動。
 標高1800メートルを超えるカプチョルワの町に到着。景色最高。
 水運びを手伝う。ウガンダの赤ちゃんに怖がられ、号泣される。
 人生初のロレックス(ロールエッグス→卵が中に入ったチャパティ)を食べる。
 ゆっきー宅で日本食をごちそうになる。早めの就寝。

2月22日 カプチョルワ~ムバレ~マラバ~エルドレット
 午前中ゆっきー(薬剤師)活動先の病院訪問。
 乗り合いタクシーでムバレへ。そしてマタツでトロロ経由でケニアとの国境へ。
 ケニアとの国境マラバで、ウガンダ出国審査のスタンプを押してもらう。
 ケニア側にはいり、ケニア入国審査でスタンプを押してもらう。
 マタツでエルドレットへ。あいにくの雨。

 というような、流れでウガンダを旅行してきました。明日はケニア西部の旅行をざっと紹介します。

2010年3月3日水曜日

2月23日 2回目の結婚記念日

 この日は2回目の結婚記念日。それを記念して、今日は私をずっと日本で支えてくれた妻の名言集を紹介します。

★第1位★
「雑誌の付録についてた名づけの本によると、アンケート結果、
 ☆世界で活躍しそうな名前☆
 ☆1位☆ ケン
 ☆2位☆ イチロー

 だって。

 合わせて、ケンイチロー☆

 すごいね。」

★第2位★
 「すべてのことに正しい選択できる人はいないから大丈夫だよ。失敗や反省をしながら進んでいくんだ  から。

 ケニャイチローがケニアに行ってどれくらい“ありがとう”って言葉を言って、言ってもらったかな。それだけでケニアに行ってる意味はあると思うよ。大丈夫。」


★第3位★
 「いつでも帰ってきていいよ。今日でも明日でも、秋でも、冬でも、春でも。
  いつでもケニャイチローは帰るところがあるよ。
  いつでも笑顔で待ってるよ。」

2010年3月2日火曜日

2月16日 My 30th birthday


この街を出ていく事に 決めたのは いつか 君と
話した夢の 続きが今も 捨てきれないから

何度も耳をふさいでは ごまかしてばかりいたよ
だけど今度はちょっと違うんだ 昨日の僕とは

こっそり出てゆくよ だけど負け犬じゃない もうキャンセルもできない

さようなら 会えなくなるけど さみしくなんかないよ
そのうちきっと 大きな声で 笑える日が来るから
動き出した僕の夢 高い山越えて 星になれたらいいな

何かにつまづいたときは 空に手をかざしてみよう
この風邪はきっと どこかで君とつながってるから

呼んでる声がする だけど帰りたくない 笑われるのにも慣れた

長く助走をとったほうが より遠くに飛べるって聞いた
そのうちきっと 大きな声で 笑える日が来るはず
動き出した僕の夢 深い谷越えて 虹になれたらいいな

さようなら 会えなくなるけど さみしくなんかないよ
そのうちきっと 大きな声で 笑える日が来るから
動き出した僕の夢 高い山越えて 星になれたら いいな
                     (『星になれたら』Mr.children)



もうすぐ大きな声で笑える日が来る。 残り20日。

ケニア旅行記 モンバサ②

次に訪れたのは同期のまっきーが配属されている養護学校。隊員の中でも同じ現職教員の仲間として、お互い刺激しあった仲である。まっきーの配属先見学をするのを、すごく楽しみにしていた。

 授業のほとんどの時間、笑顔で優しく子どもたちに接する彼女。あわてず丁寧に子どもたちに伝える姿は、すごく参考になった。障害を持った子どもたちにもわかりやすく興味を持ってもらえるよう、たくさんの工夫がその授業のいたるところでなされていて、こちらも楽しくなった。

 午後の授業はビーズ細工。この学校では、ビーズ細工を作って、それを売っている。それを少しでもその学校の経費や運営費にまわしている。それでも子どもたちが熱心に黙々と作る姿はすごく感動的だ。真剣なまなざしで、細い糸にビーズを通していく。もちろん適当にビーズを通していくのでなく、バランスや色の規則などを考えながら、作業をする。すごく時間のかかる大変な作業だが、子どもたちの出来上がったときの笑顔をみると、子どもたちも楽しく作業しているのではと感じる。

 さてケニア東部旅行の最終日は、環境教育を推進している学校を訪れた。この学校の環境に対する意識は日本の学校以上だ。敷地内に落ちている枯れ葉や使った後の紙や新聞紙を、細かくしつぶして炭を作ったり、紙細工を作ったり。また雨が降ったあとの水は、巨大なタンクにためることができるように工夫をしていたし、ものすごく環境に優しい学校であった。

 そんなこんなでケニア東部旅行は終了。また新たなケニアの一面が見えた旅行だった。

2010年2月27日土曜日

ケニア旅行記 モンバサ①


 ケニア第二の都市モンバサ。海岸沿いに位置するこの町にはイスラム教が色濃く残り、同じケニアとは思えないような風景が広がる。建物もイスラム様式のものが多く、ケニア人女性でブイブイ(黒の服で、目以外の肌を隠す服)を着ている人も多い。

 前日ボイからモンバサに来た私はこの日、まず訪れたのは先輩隊員なおさん(コンピュータ技術)が活動するM.T.T.I(Mombasa Technology Training Institute)だ。かなり大きな学校で、コンピュータの数も数百台とケニアの技術専門学校の中では群を抜いている。授業のない生徒は廊下に机を出し自習。日本の大学でもあまり見ることができない、そんな熱心な光景がここでは見ることができる。

 そしてお腹もすいたところで、コースト料理で有名なTurbushレストランに行く。コースト料理として有名なビリヤニ(炒めたごはんにピリ辛ソースが乗っているもの)を食べる。コースト特有の香辛料が使われていて、これがまたうまい。そして暑いモンバサだからこそ、冷たいソーダが最高にうまいんです。

 さて、次に向かったのがリコニ更生院。ゲタスル更生院で3カ月過ごしたのち、国内6か所の更生院に行く中の一つ。今回の旅行の目的の一つとして、ゲタスルで出会った子どもたちに最後の挨拶をするというものもある。その子どもたちがどんなに成長をしているか、これが楽しみの一つでもあった。

 治安が良くないリコニを一人で行動するのは、いささか勇気がいることであったが、なんとかリコニ更生院に到着。私の姿を見るなり子どもたちはびっくりして笑顔になる。

 “ Ken-san!!” 「ケンさん!」

 そう言って、走って近寄ってくる。温かいというか、むしろ暑苦しいにもほどがある子どもたちと握手をしたり、頭をなでたりして久しぶりの再会をする。顔が妙に大人っぽくなっている子ども、声変わりをした子ども、髪やひげが生えてきた子ども、小さかった身長が私より高くなっている子ども、それぞれの子の成長を感じながら、妙にうれしさと寂しさがこみ上げてくる。こういう場面は、少々苦手だ。涙もろくなる。

 “ Baada ya Mweji moja, nitarudi Japan.” 「一ヶ月後、日本に帰るんだ。」

 そうみんなに言って、最後の挨拶をする。子どもたちは思ったよりも寂しそうな表情もなく、あっけらかんとしている。少し拍子抜けだ・・・。そして手をつないで、リコニ更生院の中を案内してもらい、一緒におしゃべり。職業訓練で家具作りとしてイスを作っている子どもやパン作りとして調理をしている子どもの姿も見えた。ボーイズが少したくましく見えた。また手をつないで運動場まで散歩。

 この子どもたちの手が、俺の手にはおさまらないくらい大きくなるのかなあ。そんな子どもたちの明るい未来を切り開く手をぎゅっと握りしめ、溢れだそうとする涙をぐっと我慢した。

 また会おうな、リコニボーイズ。

 残り22日。

2010年2月17日水曜日

ケニア旅行記 ボイ


 2つ目の目的地はボイ。初めてのヒッチハイクでトラックの運ちゃんに乗せてもらってボイに着く。東ツァボ国立公園の入り口でもあるこの町は、観光客も多く、交通がすごく発展している。お店の数も多くあり、かなり大きな町だ。この町でも同期の隊員が活動している。同い年のにっしーである。彼はコンピュータ技術という職種で、Coast Institute of Technology(コースト科学専門学校)でコンピュータを教えている隊員だ。

 夕方に彼の活動の一環である教員へのコンピュータのブラインドタッチ講座を見学する。ケニアの先生たちは真剣なまなざしでキーボードを打つ。私も挑戦してみたが、すぐに集中力がなくなり席をたってしまった。ケニア人とは思えないほどの集中力。しかし、このように彼がいなくなっても先生たちがコンピュータを上手に使えることができるようにと考えたこの講座は、すごく大きな力になっていくんだろうなあと感じた。

 この学校にはコンピュータ科以外の学科もたくさんある。電気科、木工科、家政科、調理科など。それぞれの授業や教室を見学し、生徒の真面目な姿に驚いた。また休み時間も外に机を出し、自習をしている姿が印象的だった。

 夜はボイのタウンに出て、彼の行きつけのお店に行った。冷たいビールに豚と鶏の炭火焼(Nyama Choma)。これが最高で、料理が出てきてからは二人の会話はストップして肉にがっついていました。ケニア料理の中でも、このニャマチョマ(肉の炭火焼)は大好物です。

 次の朝、コンピュータ科の生徒のためのプログラミングの授業を見学する。一人ひとりに熱心に教える姿に刺激を受けた。生徒たちもまちがいを繰り返しては、少しずつ正しい方向へと導かれていく。ケニア人のペースを大切にしつつ、ひたむきに教える彼の姿がすごくかっこよかった。このように同期の活動を見学するのは、かなり刺激になる。他の隊員の活動を見るたびにいつも考えさせられ、自分の活動に取り入れていく。これが隊員間の良さでもあるんだろうなあ。

 そして次なる目的地モンバサへと向かう。

ケニア旅行記 ムティトアンディ


 ケニアのいろいろな場所を見たり、いろいろな人に出会う。ケニアに来る前から、活動の他にたくさんのケニアを見てみたいと思っていた。そして2月8日から14日までの1週間、ケニア東部の旅行へ出かけた。

 はじめの行先はムティトアンディ。同期の隊員れんちゃんが活動している任地である。彼は西ツァボ国立公園で環境教育の隊員として活動している。その活動先を見学しに行った。ナイロビからバスで4時間。ちょうどナイロビとケニア第2の海岸沿いの都市モンバサの中間地点にあるこの町は、トラックや大型バスの停留地点でもある。そのため、まわりには食堂や露店が多くある。

 ムティトについて、れんちゃんと合流。近くのローカルなお店で昼食を食べ、彼の活動先を見学する。西ツァボ国立公園のゲートを入って、すぐのところに位置する教育センター。そこが彼の活動場所だ。ラミネーターできれいに作った掲示物を見ながら、ゆっくり見学。他の職種の隊員の活動の様子を見るのは、かなり新鮮で新しい発見がたくさんあるから好きだ。

 夕方から彼の活動の一環「クリーンアップ活動」の協力のお願いに近くの小学校2校を訪れた。このようにコミュニティに出て現地のケニア人と仕事の話をすることがない私にとって、なにか不思議な感じがした。私のような更生院(学校)隊員は、もともと対象となる子どもや生徒がいるのだが、環境教育や村落開発の隊員は対象作りから始まる。ここでも一つ、大きな発見があった。

 そしてれんちゃんの家に帰って、そこから西ツァボ国立公園の眺めを見る。夕方に照らされた眺めは本当にアフリカの大地を感じることができ大感動した。そして夕食を食べ、就寝。

 次の日、れんちゃんの好意で西ツァボ国立公園のゲームサファリをする。この日は大変天気がよく、そこからアフリカ最高峰のキリマンジャロがきれいに見えた。そして丘、岩山、火山岩地、「ムジマ・スプリングス」と呼ばれる湧水などを見ることができ、改めて自然の素晴らしさを味わうことができた。 

 そして次の目的地ボイへと向かった

2010年2月16日火曜日

2月6日 命のつながり

 「人の死」について、このブログで書いたことはない。むしろ書かないようにしていたといってもいいだろう。この2年間で何回身近な人の死を見てきただろう。ゲタスル更生院の子どもの死、同僚の死など。けど、今回の出来事で書こうと思った。

 この日、同僚の母が亡くなり、隣町のマチャコスまでお葬式に行った。そこには200名近い親族や近所の人などがたくさん来ていた。昼過ぎに着き、お昼ごはんをいただく。お葬式の前に、来た人にもてなしの気持ちを込めて昼ごはんをふるまう。故人が生前食べていた普段の食事を、最後の食事としていただく。

 そして食事の後、外の広場にイスや机などが設置された会場に行く。その小さな机には故人の入った棺桶をのせる。そして他の人たちはまわりにあるイスや地面に座り、故人との最期の時間を過ごす。血筋の濃い親族から棺桶の後ろにたって記念撮影。棺桶と一緒に写真をとる。そしてそのあとは、関係の深かったものからのメッセージ、そして牧師さんのお話(日本でいうお経のようなもの)があり、最後に棺桶を2メートルほど掘った地面の中に入れる。そして最後のお別れとして一人ひとりが、手に砂持ち、それを棺桶にかける。日本の火葬とちがい、土葬が主である。

 同僚の母は86歳まで長生きしたらしい。ケニアの平均寿命を考えると、かなり長生きをした。彼女はたくさんの子ども、孫、ひ孫に見守られた。彼女がいたから、たくさんの家族ができた。そんなとき、ふと「命のつながり」を感じた。

 これを逆に考えてみることもできる。私には両親がいて、4人の祖父母がいて、8人の曾祖父母がいて、その上には16人、またその上には32人、64人、128人・・・。というように私の命は、たくさんの人の「命のつながり」によって受け継がれている。その中のたった一人でも欠けていたら、私は存在していない。だから命って尊いものだし、素晴らしいものなんだって気づく。

 人間だけではない。動物だって、植物だってきっと「命のつながり」があるからこそ、今生きているんだと思う。だからこそ、どんな生物でも自分の死が来るまで、その生涯をまっとうしようと思うのだ。

 ケニアではどんなに貧しくても、どんなに苦しくてもその日その日を大切にしている。一日中木の下でおしゃべりをしたり、家の周りで子どもと遊んだり、親戚同士で助け合いごはんを分け合ったり。将来のことや未来のことを考えている人はごく一部で、一日一日を楽しく生きている。だからこそ、身近にある死も柔軟に受け入れてるんだろう。

 そう感じた、「命のつながり」。私にも今後、「命のつながり」となる子どもができ、そして孫ができ、ひ孫ができ、どんどん「命のつながり」が広がっていく。そう思うと、すごく自分の存在も大切に思えてくる。周りの人のことも大切に思えてくる。だからちょっと考えてみてください、「命のつながり」というものを。

 残り34日。

2010年2月5日金曜日

2月4日 や、やせた!?

 「太ったね。」
 「お腹の肉、すごいね。」

 10月にケニアに訪れた妻の衝撃的な言葉。わかっていたことだが、改めて言われたことに茫然とした。妻に少しでもいい思い出を作ってほしいと思い、素敵なホテルやロッジに宿泊し、毎日の朝昼晩と3食のバイキングを食べたのがいけなかった。

 人生で一番太った時期といっても過言ではないくらい太った。おそらく75キロを超えていたのでは・・・。結婚式前後の体重は63キロ。10キロ以上の差だ。そして今年に入って、プチメタボを解消すべく、あの若かりし頃の体型に戻すべく、新たなチャレンジが始まった。それは毎日のストレッチとジョギングだ。起床時、昼休み、就寝前の3回、ゆっくり約20分のストレッチ。硬くなった体を柔らかくすることから始める。初めは体を倒しても、お腹の肉が邪魔をしてまったく前に倒れない。思った以上にお腹の肉が強敵になっていることにこのとき初めて気づく。

 そして始めたジョギング。運動場周り約300メートルほどかな。1周走って、終了。体の肉は体力まで奪ってしまったようだ。息切れがしてそれ以上続けることができず、我慢嫌いな私は、毎日運動場1周(約2分)のジョギングをする。

 完全な肥満としてスタートした2010年。あれから1カ月してどのように変わったのだろう??

 現在ストレッチは一番柔らかったときと同じほど、柔らかくなっている。お腹の肉が邪魔で前に倒れることができないということはまったくなくなった。そしてジョギング、今現在、毎日運動場10周(約3キロ)を走っている。それに付け加え縄跳び20分間。あと1カ月したら、どんなになっているんだろう。ふふふ、見とけよ。帰国したら、

 「かっこいい❤」

 って言われるよう、もうちょいがんばります。ってか、もちろん妻にいってもらえるように。この点を間違えると、うちの家庭が崩壊するんで。

 残り45日。

2010年2月4日木曜日

2月3日 ゲタスル更生院の給食② 昼食、夕食

 一日30品目の食品を食べるのが良い。
 と日本では言われるが、ゲタスル更生院では言えないかな。1日多くて4、5品目しか摂取できない子どもたちだが、ごはんが安心して食べられるだけでも幸せなことである。たとえ昼食と夕食がまったく同じメニューでも・・・。

 ここゲタスル更生院では大きな鍋に約100人分のごはんを作る。それも2食分。つまり昼食分と夕食分だ。昼食で半分を出し、夕食でもう半分を出す。そのため、彼らの食べる食品目は4、5品目になるということだ。

 さて彼らの給食として、一番よく出るのは「ギゼリ」(Githeri)と「ウガリ」(Ugali)だ。ギゼリはとうもろこし(甘いものでなく、味がほとんどない白いとうもろこし)と豆を塩で煮込んだものである。最近ではこれにじゃがいもやキャベツが入るようになり、少しグレードアップしている。子どもたちの中には豆をすべて食べてそのあとにトウモロコシを食べるなど、いろいろな食べ方をしているものもいる。量が少ないと、それをゆっくり噛みしめながら食べる。少しでもお腹がいっぱいになる方法を知っているのだろう。

 次にウガリ。ウガリはここ東アフリカのもっともポピュラーな主食といってもいい。トウモロコシの粉を湯でよくこねて蒸したものである。味はほとんどないが、おかずと一緒に食べるとけっこうやみつきになる。私はこのウガリが大好きだ。ゲタスル更生院では、ウガリを作る鍋とおかずを作る鍋二つを使う。おかずはマハラグェMahargweと呼ばれると呼ばれる赤豆の似たものだ。これにキャベツが入る。毎日この赤豆は給食にでる。ギゼリのときもウガリのときも。

 1週間に1回はお米(Mchele)の日だ。これもマハラグェと一緒に食べる。もしくはデングと呼ばれる小さな緑色の豆と一緒に。しかし子どもたちにお米はあまり人気がない。なんでもお米はすぐにお腹がすくらしい。なので、寝る前にいつもお腹がすいて困るということだ。また現在は週に1回肉の日がある。牛肉を約50グラムずつ切り、お湯で茹でた茹で肉。子どものテンションが上がる。また2週間に1回フルーツの日がある。パイナップルやオレンジ、マンゴーなどを子どもは食べることができる。

 トウモロコシの収穫の時期になると、子どもたちにはトウモロコシが配られる。そして炭でじっくり焼いた、焼きトウモロコシを作る。この出来たてがかなりウマい。私の大好物だ。一度にトウモロコシ3本は食べることができる。それほどウマい。

 ところで、アフリカの子どもたちは給食や食べ物を残さないとよく言われるが、実際のところは・・・本当に残さない。小さい子が食べきれなかったら大きい子がそれを食べる。食べ物を捨てるというような光景をここゲタスル更生院で見たことがない。この点に関しては、見ていて気持ちいいし、気分がいい。しかし中には、虫歯が痛くてギゼリが食べられないという弱っちいやつ、デング豆が食べられない、ウジが飲めないといった子もいる。残すことはないが、好き嫌いはある。私もらっきょを食べることができないし・・・。

 というのがゲタスル更生院の給食です。日本の給食と比べると種類はそんなに多くないけど、子どもたちにとっては安心してお腹いっぱい食べることができる給食は最高の楽しみなんだろうなあ。そんな子どもたちがごはんを食べている姿を見ることが私の幸せな時間。

 残り46日。

2010年2月3日水曜日

2月2日 ゲタスル更生院の給食① 朝食

 子どもたちが何よりも楽しみの時間。それがごはんの時間だ。今日からゲタスル更生院で子どもたちが食べるごはん(給食)を紹介します。

 まず毎日の朝ごはんとして、飲むのがウジUji。トウモロコシのお粥のようなものである。これに砂糖を入れて少し甘くする。熱々のウジを少しずつ飲む。大きなコップにいっぱいに入ったウジだが、子どもたちにとっては全く足りないようだ。普段はこのコップ一杯のウジが朝食である。

 祝日になると、朝食は豪華になる。クリスマスや正月のような大きな祝日には、前日にマンダージ(揚げパン)が作られる。砂糖をかけない揚げパンのような感じだが、ほんのり甘いこの食べ物は子どもたちの大好物だ。これと一緒に飲むチャイ(ミルクティー)がまたうまい。ケニアをはじめ、東アフリカの中ではもっともポピュラーな飲み物である。ケニア人はこれにたっぷりの砂糖を入れる。私のお腹の脂肪の大半はこのチャイからきていると言っても過言ではない。

 また普通の祝日には食パンが配られる。これ一人スライス4枚配られる。これもやっぱり合うのがチャイ。日本ではジャムやマーガリンをつけたりするが、子どもたちにはそのようなものはない。食パンをそのまま食べる。食パンを口に含んでは、チャイを飲む。この組み合わせが何ともいえず、うまいのである。私の朝食は、基本食パンとチャイである。まあ私はそれにハチミツをたっぷりつけるのだが・・・。だから太るのか・・・!?

 というようなものが、ここゲタスル更生院の朝食。次回は昼食と夕食を紹介します。

 残り47日。

2010年2月2日火曜日

2月1日 不思議な感覚

 突然、不思議な感覚になった。それはオフィスの横の掲示物を眺めていたとき。

 私が帰るときには、自分の作った手作りの作品や掲示物、すべてを処分して帰る予定だ。というのも、ここゲタスル更生院には後任の隊員がやってくる。その人に前任の私がやってきたことを引き継いでもらいたいという気持ちはさらさらない。むしろ何もない状態で、自分の色を出して活動してほしいと思うからだ。

 そのためすべての作品や掲示物などはあと1カ月半で処分することにしている。この感覚はちょうど年度末の日本の中学校の学級を持っていたときと似ている。修了式後、卒業式後、生徒がいなくなった教室で一人掲示物や作品をとっていく、そんな感覚に似た感じだ。

 日本ではそろそろ年度末。終わりが見えてくる時期である。私の活動も終わりが見えてきて、ここケニアでの教育活動も終わりを迎えようとしている。今まで作ってきたものも、育てたものも形としてではなく、この約2年間で接してきた子どもたちの内面に残ってほしいと感じている。それが自分がこのゲタスル更生院にいた証になると思う。

 当たり前のことができることって、実はすごく温かくて、かけがえのないものだと思う。そばに子どもがいる、一緒に話ができる、一緒に笑える、ケニアだからとか協力隊だとか関係ない。日本にいる人だって、世界中にいる人だって、実は当たり前に生活できることの幸せを感じているはずだ。その当たり前の生活がもう少しでできなくなる、切ない気持ちと実感がないのとよくわからない感じだ。

 初めて自分が3年間受け持った生徒が卒業する前日の給食時間のことを思い出す。1年生のときにまったく準備できなかった生徒が、てきぱきと給食の準備をする。いつも一緒に食べていた給食、それも明日から食べることができない。そう思うと涙がこぼれた。

 「先生、卒業式まで涙はとっておいてよ。」

 そう言って生徒が笑って、なぐさめてくれたのを思い出した。その時から当たり前のこと、当たり前の日常が実は一番かけがえのないものだと考え始めた。再び同じような不思議な感覚を感じたこの日。その感覚が日に日に大きくなっていくんだろうなあと思う。


残り48日。

2010年1月31日日曜日

1月30日 ケニア人のペース

 どの国にもそれぞれの文化、ライフスタイル、考えというものがある。「郷に入れば郷に従え」という言葉があるが、それぞれ独自のものを持っている中で、私日本人の文化・ライフスタイル・考えを押し付けることはおこがましいことである。

 たとえば仕事でも同じことが言える。

 ○時間を守れない。
 ○約束を守れない。
 ○一つのことをするのに時間がかかる。

 などなど。決して悪気はないのだが、ケニア人のこのような仕事に対する姿勢に抵抗を感じる時がある。自分が日本で仕事をしているときに比べて、イライラする場面がたくさんある。子どもへの接し方はもちろん、仕事に対する姿勢まで理解できない場面が多い。

 3年前、私がまだ中学校で仕事をしていたとき、外国人英語助手の先生としてオーストラリア人の先生が中学校へやってきた。日本の子どもたちに英語を教えてやるんだという希望を持って。しかし、中学生の英語への動機の低さ、授業に対する態度などで、彼はすごく悩んだ。そしていろんな場面で怒りを表にすることもあった。日本の中学校の現状、英語教育に関する現状、すべてが彼の理想とは異なっていた。

 今になって、そのオーストラリア人の先生の気持ちがよくわかる。自分が外国に行って働いて、初めてわかるこの気持ち。自分が培ったもの、信じてきたものが通用しない外国という場所。これを理解するのには多くの時間がかかった。

 ケニア人のペースを大切にしよう。

 最近ようやく導き出された自分の中の答え。すべてにおいてケニア人のペースがある。日本人にはない彼らのペースが。もちろん文化もライフスタイルも考えも彼ら独自のものがある。それをようやく心の中から大切にしていこうと、今頃になって思い始めた。もちろん今まで意識してきたことだが、なかなか理解できないことである。しかし、それをケニア人と諦めるのでなく、がっかりするのでなく、ケニア人のペースを大切にする。

 そう思い始めたら、今まで好きでなかったケニア人が好きになり始めた。イライラすることが少なくなったように思う。きっと他の隊員に比べて、理解するのがかなりおそかったのだろう・・・自分は頑固者だから。気付いた時にはもう1カ月半少ししかケニアでの生活が残ってないが、だからこそケニア人と一緒にいれるこの時間を大事に大事にしていきたいと思う。

 残り50日。

2010年1月29日金曜日

1月27日 アユコ


 決して治安がいいとは言えない我が任地カベテ。朝も昼もおだやかなのに、夜になると本当に嫌な雰囲気になる。

 そこに安心感を与えてくれる助っ人、いや助っ犬がやってきた。最近よくうちの家にやってきては、餌をせがむ。そんなかわいい顔で見られると弱くなってしまう私は、いつも家にあるごはんの残り物をやる。

 おっぱいが大きく、メスであるこの助っ犬。この子に「アユコ」とつけた。昼休みに家に帰ってくると、私の姿を見つけては家にやってくる。そして甘えたり、ごはんをせがんだり。本当に甘え上手なアユコ。妻にも見習ってもらいたいわ・・・。

 ごはんを食べるとなでなでタイム、そしてお昼寝タイム。野良犬であるアユコは寂しがり屋。そんなアユコの頭をなでてやると、すごく喜ぶ。そしてお昼寝。うちの玄関前で堂々と寝ころぶ。いつも昼寝の邪魔をしてくる近所の子どもたちも、アユコがいるとうちに侵入してこない。しかし狂犬病には気をつけるようによくJICAから言われているのだが、気にしない。アユコに限って、私を噛むことはないだろう。

 今日もなでてやって、寝ころぶ。・・・あれっ!?あの股間にあるものはチンチン!?
オス!? と、この日新事実が発覚したが、「アユコ」の名前を変えるつもりはない。

残り53日。

2010年1月28日木曜日

1月24日 KESTESチャリティコンサート

 タイトルにいきなり「KESTES」という文字・・・。
 これが何を表しているか、それは “Kenya Students’ Educational Scholarship” の頭文字をとったものである。日本語の正式名称は「青年海外協力隊在ケニア隊員有志による奨学金制度」というものだ。

 これは人格・成績ともに優秀であるにもかかわらず、貧困や経済的理由のために進学できないケニア人生徒に学費の援助をしている組織である。1983年から始まったこの組織は現在に至るまで400名以上のケニア人学生に援助をしてきた。それほど歴史の深い組織である。














 私はこのKESTESの一員として、今まで日本人ふれあい祭りでの募金活動や隊員総会時の広報活動など行ってきた。そして今回はKESTES設立後初のチャリティコンサートを行うことになった。日本からミュージシャン、小説家、画家と幅広く活躍されるAKIRAさんを迎えて。

 朝早くから隊員ドミトリー近くのJACII(日本スワヒリ語学院)に行き、会場設営などを始める。野外ステージの設営も順調にすすみ、AKIRAさんやシンヤ(同期隊員)もリハーサルを始める。私自身も初めてとなるコンサートの運営にいささか緊張するが、楽しみも多くあった。

 現在、奨学生としてケニア人学生2人を援助しているのだが、その2人の奨学生も遠い自分の町(村)からわざわざナイロビまで来てくれた。この二人にお金を集めることのむずかしさ、大変さ、また自分たちの奨学金がどれほど多くの人の力にとって成り立っているのか、それを感じてほしかった。


 さてお客さんも集まり、いよいよスタート。AKIRAさんのありのままの想いがつづられている歌にみんなが一瞬にして引き込まれる。お客さんの真剣な表情や涙する姿も見られ、コンサートは大成功となった。その様子をずっと見ていたケニアの奨学生2人。奨学生の一人はコンサートの後、担当の隊員に涙を浮かべながらこういうことを伝えたそうだ。

 「今日は本当に感動しました。本当にありがとう。」

 いつかこういう子たちが立派に社会へと巣立っていく。それを目標にKESTESの活動も続けていきたい。そしてこれからケニアにやってくる後輩隊員にこの想いも受け継いでほしいなあと思う。

 残り56日。

2010年1月22日金曜日

1月21日 けいどろ


 みなさんは「けいどろ」っていうゲームを知っているだろうか。

 この「けいどろ」とは「警察と泥棒」の略。スワヒリ語でいうと "Polisi na Mwizi"。私が小学校時代、学校から帰ってきてよく友達と遊んだゲームが「けいどろ」だ。ほかにも「ポコペン」というものもあったが。 私の地元、岡山県倉敷市児島の同年代の人たちはみんな知っているだろう。この二つのゲーム。関東でいう「缶けり」に似てるところがあるのかな。

 ルールはいたってシンプル。泥棒役の子どもが隠れたり逃げたりしているのを、警察役の子どもが捕まえるというもの。地元ルールでは「刑務所」という場所を作り、そこに捕まえた泥棒を入れるのだが、仲間の泥棒が助けに来てタッチすると、また逃げられるという、度胸・知能・体力を必要とする単純かつ奥の深いゲームだ。

 “ Nyinyi ni wezi.” 「お前ら、泥棒な。」

 と子どもたちに伝える。更生院の子どもたちで本当に泥棒だった子たちもいるなかで、適切な発言じゃないかもしれないし、教育上配慮のないゲームかもしれないけど、まったく気にしない。

 綱引き用の綱で円を作り「刑務所」を作る。30人クラスで警察役は10人、泥棒役は20人だ。私たちのころは圧倒的に警察役にあこがれたものだ。警察は正義のヒーローのような存在だから。 しかしゲタスルの子どもたちはちがう。ほとんどが泥棒役になりたがっている。

 “ Kwa nini unataka kuwa mwizi?” 「どうして、泥棒になりたいの?」
 “ Napenda kutoroka.” 「逃げるの好きだから。」


 またまた配慮のない発言だが、一切気にしない。しかしその答えにも納得してしまう。今まで警察を見たら逃げてきたような子どもだし、警察に敵対心を持っている子もいるから、警察にはなりたくないよな・・・、と妙に納得。

 それでもこの「けいどろ」、かなり盛り上がるんです。1時間ずっと走りっぱなしでも笑顔が絶えず、楽しめるんです。

 “ Hii ni tamu sana.” 「これ、むちゃくちゃおもしろいよ。」

 と声を合わせて子どもたちが言う。単なる競争より、友達と触れ合って楽しめるゲームのほうがやっぱり好きなようだ。最近は毎日「けいどろ」。けど、頼むから将来は警察官になってくれよ。泥棒にはなるなよ・・・。

2010年1月20日水曜日

1月18日 ケニャイチロー休日の過ごし方

 日本にいたときとは、まったくちがう休日の過ごし方をしてる。
休日ってこんなにのんびり過ごせるもんなんだと改めて感じる最近。
日本にいたころは、土日の2日間とも部活動。部活動の後は疲れて帰って、何をしていたかもはっきりしない。本当に仕事の延長線上で土日も過ごしていた。

 ここケニアでは初めのうちは、せっかくケニアに来たからと土日を使って他の隊員宅や旅行などをしていた。今は任地カベテでのんびり過ごすのが好きだ。そこで今回は休日の過ごし方を紹介します。
 
① 家事(洗濯、掃除、草取り、自炊)
 1週間分のまとまった衣類の洗濯をする。もちろん洗濯機はないので手洗い。手洗いにもかなり慣れてきたのだが、昔のお母さん方の苦労が身にしみる。布団干しも2週間に1回は欠かさず行う。
 次に、1週間たてば砂ぼこり・クモの巣だらけになる家を掃除。ほこりも砂も驚くほど多い。また最近は雨がけっこう降るので、庭には次々と雑草がはえる。それをケニアの草刈り機「スラッシャー」(ゴルフのアイアンみたいな形で、振り回して草を刈る)で草を刈る。これがかなりの重労働。1分刈っては1分休んでの繰り返し。
 最後に自炊。土日におもに作るのはカレーかクリームシチュー。日本から送ってもらったルーがあるので、土日に作る。これは2、3日食べることができるし、野菜もたっぷり入っておいしいので定番メニューである。

② 更生院の子たちと読書
 家事が終わると、ようやく自分の時間が持てる。しかし家で一人はさびしいので、更生院の図書館を開けて、そこで読書をする。それに気づいた子どもたちがやってきて一緒に読書。あまり会話はないが、こうやって一緒に読書をする時間が好きだ。

③ 任地カベテ名物の豚肉料理と喫茶店でひととき
 土曜日の昼に必ず食べに行く場所がある。カベテ名物豚肉料理が食べれる近くのボロ家。店員さんとはすっかり仲良しだ。豚肉とトマトと玉ねぎを炒めたものをウガリと一緒に食べる。これがかなりうまい。それもお腹いっぱいに食べても85シル(約110円)。お勧めのお店だ。
 その豚肉料理を食べて終わったら、そこから徒歩20秒でいける喫茶店へ。この喫茶店は毎日行っている行きつけのお店だ。きれいなお姉さんと学校には行かず働いている子どもたちが経営している。そこでいつも頼むのがチャイ(ミルクティー)とマンダージ(アゲパン)2つ。全部で20シル(約26円)。ここでのんびり過ごすのが大好きである。店員の子供たちも私の名前を覚えていて、私が来るといつも嬉しそうに挨拶をしてくれる。 

 “Ken, Habari?” 「ケン、やあ。」

 というぐあいだ。リラックスして子どもたちやお姉さんとの会話を楽しんでいる。

④ 近所の子供たちと遊ぶ、隣人とおしゃべりをする

土日は基本的にフェンスの門、家のドアを開けている。それを見た近所の子供たちは、必ず遊びに来る。

 “ Uncle Ken!!” 「ケンおじさん!!」

 そう言って許可もなく家に入ってきてはイスに座り、話しはじめる。機嫌のいいときは、子どもたちの大合唱が始まる。と同時に走り始める。うちはね、コンサートホールでもなければ運動場でもないんだよと思うが、子どもたちは止まらない。
 隣人ともよく話をする。平日は忙しくなかなか話ができないが土日はゆっくり話ができるので、こちらもうれしい。

 というように、土日の休日を過ごしている。あと何回ケニアで土日を迎えるんだろうか。と数えるぐらいしか残ってないが、それでものんびり任地で過ごしたい。そんな休日が大好きだ。

2010年1月17日日曜日

ケニャイチロー回想記 初心

 理想と現実はちがう。
 ケニアに来て思ったことだし、教師になった初めての年もそう思った。きっとどこかで光り輝く素敵な活動を夢見ていたんだろう。来る前に考えることは苦労することより、楽しいことばかり。アフリカの子供と笑って、みんなに温かくされて。

 そんな甘い考えがあったから、小さな苦労でも私にとって大きくなっていったんだろう。 ちょうど教師1年目、初任者の頃を思い出す。

 大学時代に思い描いていた教師像とはちがい、苦労の連続だった。授業のあるたびにその前の休み時間にトイレにこもって、不安な気持ちを整理していた。生徒のことが怖いと思ったこともあった。授業のポイント、学級経営のポイント、押したり引いたりのバランス、まったく何もわからない私はどんどん自信を失った。

 「正直テクニックもない、授業技術もない、経験もない、そんなくろちゃんにしかできないことがある。」

 当時の学年主任の先生に連れて行ってもらった居酒屋で言われた言葉。苦労して落ち込むたびにいつも励ましてくれた。

 私にしかできないこと。それは「生徒のそばにいる」ことだった。

 嫌われても嫌われても生徒のそばにいること。毎日の部活の朝練習、休み時間、昼休み、授業以外でも生徒のそばにいるようにした。てか、それしかできなかったからだ。

 それが今の私の原点だ。もちろん逃げ出したいときも、苦しくて胃が痛むときもあった。けど、その「生徒のそばにいる」ことを投げ出したら、私には何も残らないことはわかっていた。初心=「生徒のそばにいる」というのが私の中にある。

  このケニアでも初任者の頃と同じように思う。ケニアの更生院における経験もない、言語能力もない、ケニアの子どもたちを指導する技術もない・・・。だからこそ、大切なのは「子どものそばにいること」。残り2カ月間でできること、きっと大きいことはできないけど、だからこそ初心に戻って自分のできることをしていきたい。

2010年1月15日金曜日

1月14日 「先生、勉強したい。」


“ Mwalimu, nataka kusoma.” 「先生、勉強したい。」

 いつもそう言って私のところに来る子がいる。スタンダード4(小学4年生)のBilly Kamandeだ。ほかの男の子たちが楽しくテレビを見たり、遊んでいるときにいつも図書館で本を読んでいる。寡黙な男の子だが、芯があって努力をする男の子だ。

 “ Mwalimu, unifungulie library.” 「先生、図書館を開けて。」
 “ Mwalimu, nataka kalamu na kitabu cha kuandika.”
 「先生、鉛筆とノートをください。」


 ほぼ毎日のようにやってきて、自分で自習をしてはノートをチェックしてもらいにやってくる。どんなに忙しくても、そのビリーのノートチェックは最優先に行う。スワヒリ語の問題を解いてきたときはこっちも悩む。小学4年生の内容は、さすがに難しい。けど、悩むだけ悩んで答えを私も探す。どうしてもダメだったら、かっこつけず、ほかの先生に私も質問する。ビリーの真っ直ぐな想いに中途半端に答えたくないから。

 そうすると、ビリーに刺激されてか、ほかの何人かの生徒たちもやってきた。空いている時間に図書館にやってきては本を借りる。そして教室に戻り、こつこつと自習をし始める。

 “ Billy, unapenda kusoma?” 「ビリー、勉強は好きかい?」
 “ Ndiyo!” 「うん!」


 そう言って嬉しそうに勉強を続ける。生活に何の心配なく自分の好きな勉強ができる、これだけでビリーは幸せなんだろうなあ。食事もある、制服もある、ノートや鉛筆、消しゴムもある。ほかの学校にはない図書館があって、教科書もたくさんある。もちろん安心して寝る場所もある。一緒に笑える友達がいる。ここゲタスルに来れる子って、すごく幸せなのでは・・・。赴任当初から、いつもそう思っていた。

 今日もビリーは大好きな勉強を思いっきりする。そんな姿を見て、自然と笑顔が出てくる。明日の朝礼でビリーのことを話して、ビリーのことをしっかり誉めてやろうかな。そんな温かな出来事もたくさんあるここゲタスル更生院です。そして明日もビリーは私のところにやってくるだろう。

 “ Mwalimu, nataka kusoma.” 「先生、勉強したい。」

2010年1月13日水曜日

1月12日 倉敷市立玉島北中学校からの贈り物


 ゲタスルの子供たちだけでなく、私の心も温かくしてくれるプレゼントが届いた。
 それは、私の現在の所属先(休職中であるが)倉敷市立玉島北中学校からの手紙である。子どもたちには、日本の文化や食事、学校に関する色とりどりの手紙が入ってあった。そして私には、玉島北中学校からの先生方からの手紙が同封してあった。

 やはり、どこにいっても何年たっても、以前いた勤務先は気になる。2年前に受け持っていた生徒たちのこと、仲の良かった同僚の先生のことなど。思わぬ贈り物に私までうれしく感じた。

 さて子どもたちへの贈り物として、色とりどりの手紙があった。日本の食事(お寿司、おでん、給食など)をはじめ、日本の四季、学校のこと、岡山の昔話「桃太郎」の話まで英語で紹介してくれていた。
 そこで子どもたちと一緒に相談して手紙に書くことを決める。ケニアの子供たちも

 “ Tunaandika kuhusu culture ya Kenya.”
 「私たちもケニアの文化を書きます。」


 と言って、さまざまなケニアのことを考えていた。ケニアの生活、食事、動物などなど。普通の手紙でなく、文化紹介ということで子どもたちはなかなか苦労していたようだ。それでもひたむきに絵を描いたり、まちがいながらも英語の文を書いていった。

 学校にほとんど行くことのなかった子どももいる。

 “Sijui kusoma Kingereza.” 「英語の読み方がわからないよ。」

 と、困った顔をしていた子もいた。そんな子は単語の箇条書きでもいいから、絵だけでもいいからとアドバイス。自分のできることを諦めずにさせて、そして

 “ Umejaribu vizuri!” 「よくがんばったなあ。」

 とほめてやることで、子どもはいい意味で調子にのる。そうやって今回もなんとか全員手紙を書くことができました。近々、この手紙も玉島北中学校に送ります。

 あっ、玉北3年生のみなさん、そろそろ受験ですね。風邪には気をつけて受験に臨んでくださいね。大丈夫、一笑懸命にね。

2010年1月11日月曜日

1月8日 倉敷からの贈り物


 私の活動の一環として行っていること、それは国際交流。ケニアと日本を結ぶための橋渡し役として、ここゲタスル更生院と日本の学校の交流を行ってきた。この2年間で小学校6校、中学校1校、高校1校、またスワヒリ語教室の講座を行っている大人の方と交流することができた。

 今回は地元倉敷市の国際交流協会から倉敷市の4・5歳の子供たちが描いてくれた絵が届いた。テーマは「自分の好きなもの」。果物や友達など、思い思いの絵が描かれている。
今回は倉敷市在住の加藤ジェーンさん(ケニア出身)の協力でこの交流を実現させることができた。一生懸命描いてくれた絵、また描いている様子がわかる写真などを更生院の子供たちに見せた。

 日本というまったく知らない土地のお友達から送ってくれた絵に、なんだか不思議そうに見つめる彼ら。手紙や絵の贈り物なんて、ほとんどもらったことのない彼ら。きっとクリスマスカードやバースデーカードももらったことのない子が多い更生院に、そんな手作りの作品は何よりも温かいものである。

 日本の子供たちにとっても、ケニアとの交流は貴重な経験となっていてほしいと願ってやまない。交流を通して少しでも世界を身近に感じてもらえれば、小学生や中学生が、手紙として生きた英語を一生けん命に表現してもらえれば、そんなことを考えると胸が高鳴って、わくわくするし、うれしくなる。

 そんな二つの国の間に私がいることが、なんだか照れくさく誇りにさえ感じる。地元倉敷の地に戻るまで残り2カ月半。大きな達成感と自信を胸に帰りたいから、残りの期間も突っ走りたい。

 さて今回の記事の様子が新聞やインターネットで書かれているので、ごらんください。


山陽新聞
倉敷ケーブルテレビ
倉敷児童館ブログ

2010年1月6日水曜日

1月5日 我が家の紹介③



 水道から水が出る。
 電気がある。

 というのは当たり前のことのように思う。しかし私の住んでいるナイロビ郊外に関しても水や電気で不自由する時がある。一日のうち水が出る時間帯が決まっているのだ。私の家ではトイレ用の水、お湯浴び用の水、食事のときの水を必ずためなければならない。

 トイレの横には5リットル用のペットボトルに水を入れて置いてある。これはトイレ流し用とお風呂用の水である。トイレは水洗トイレではあるが、その中に水がたまることはない。なので、トイレを済ませたら、必ず水をトイレの中に入れて流さないといけない。これって水洗トイレっていうのだろうか・・・。お風呂に関してもシャワーのようなものはあるが、水はほとんど出ない。もちろんお湯も出ない。日本では考えられないことである。

 さてお風呂に関してであるが、私は大きな桶に水をため、それを電気コイルで温める。お風呂というよりお湯浴びだ。毎回お湯浴びで使う量は15リットル。ペットボトル3杯分だ。これでも十分体や髪を洗うことができる。
またキッチンの流しの下にもペットボトルが置いてある。これは食事用、食器洗い用などである。これが本当に不便である。水を流しながら、自分は食器をゆすいで。これが意外と難しい。これも慣れてきたせいか、かなり上手に食器を洗うことができるようになった。

 飲み水は水道からの水を直接飲まない。流しの横に置いてある二層に分かれた濾過機の上の部分に水をためる。そして濾過されてほぼ透明になった水が下にたまる。それをまた沸騰させて、ようやく飲むことができる。飲み水を確保するだけでも、かなりの手間と時間がかかる。

 キッチンには日本でいうところのガスコンロや電気コンロはない。私が調理で使うのはガスボンベとコンロが一緒になっているものだ。このガスボンベの上で調理をする。日本からのお客さんはこのガスボンベでの調理にかなりびっくりされる。これが意外と使い勝手がいいし、ほぼ毎日調理をしても3ヶ月間はもってくれる優れものだ。大変重宝している。

 というようにケニアならではの問題がある・・・が、それも今は慣れたし、それ自体が楽しく思う時もあるので、今はまったく不便がない。いわゆる「住めば都」である。というわけで3回にわたってお送りした我が家紹介を終わります。興味のある人は、ケニア・ナイロビ郊外にあるカベテまで。お待ちしています。

2010年1月5日火曜日

1月4日 我が家の紹介②


 私以外の先生方が家賃として月3000シル(約4000円)を払う私たちの教員住宅。1DKの部屋に私は一人で住んでいる。寝室とダイニングはそれぞれ6畳くらいかな。それに小さなキッチン、トイレと水浴び場のユニットバスがある。トイレも水は流れないが一応水洗トイレだし、特に不自由はない。

 さて普段生活しているスペースが玄関を入ってすぐにあるダイニングルームである。この場所には、予備用ベッドとプラスチック製の丸いテーブルとイスがある。このテーブルとイスを使って毎日のごはんを食べたり、パソコンをしたり。家の生活の大半はここのダイニングルームで生活している。

 また時間があるときは映画を見たり、読書をしたり、昼寝ができる癒しの空間である。年末年始の夜は一人さびしく映画と読書にふけっていました。ここのダイニングに時々ケニア人や日本人のお客さんを呼んでホームパーティをしています。

 さて次に寝室。ここの寝室には中国産のござをひいており、日本で言う畳の部屋のようにしています。ここではおもに毎朝・毎晩のストレッチと筋トレをしており、プチメタボ対策として日々努力している部屋です。また任地カベテの家具屋さん手作りのベッドとちゃぶ台があり、この手作り感がなんとも言えず好きです。二つで6000シル(約7500円)ほどしましたが、ここもぼけーっとできる癒しスペースです。ここにも予備のベッドがあり、いつでもお客さんが泊まれるようにしています。

 次回はケニアならではのキッチンの風景とトイレの風景をお見せする予定です。こんな日常のことも日本とは違うので、少し新鮮です。それでは次回。

2010年1月4日月曜日

1月3日 我が家の紹介①


 今年のテーマは「初心にかえる」。

 最近は活動に慣れて何気なく活動しているので、一日一日を大切にしようとを心がけることにした。まずは初心にかえり、子どもたちのそばにいて、なるべく多くの時間を子どもたちと接しようと考えている。
 さて、それはさておき活動が終わり、ケニャイチロー先生からケニャイチローに戻れる瞬間はやっぱり家に入ってから。ということで、今日から家について紹介しようと思います。

 さて更生院から徒歩3分のところにある家。ゲタスル更生院をはじめとする先生方が住むTeacher’s Quarter(教員住宅)に私の家がある。2家族が住むことができる長屋の半分に私は住んでいる。私の家にはセキュリティとしてフェンスがある。ケニアっぽく、木と枝と植物でできた自然のフェンス。もちろん金網も付けているのだが簡単に侵入できそうなフェンスである。

 もちろん窓も日本の窓とはまったくちがう。セキュリティ対策としてある細い鉄格子がある。また玄関のカギをかけるのは当たり前なのだが、私の家では合計4重のカギをするようにしている。日本の一般家庭で玄関に4重のカギをする家があるだろうか。

 最近では、空き巣や住居侵入という犯罪も多くなってきている。用心に越したことはない。もちろん寝室のドアにもロックがかかるようになっている。泥棒が侵入したとき、私のもとにたどり着くのに合計5重のカギを壊さないといけない。万が一泥棒が入るなら、私がいるときより私がいないときに空き巣としてはいってもらったほうが、まだマシだ・・・。

 初めはどんなにカギをしても、すごく怖くてなかなか寝付けなかったが、最近は慣れてきてゆっくりと寝ることができる。街灯もなく真っ暗である家の外、たまに聞こえてくる銃声、本当に慣れって怖いです。そんな状況も最近では慣れてしまいました。

 次回は、家の中を紹介します。一人で住むには十分な広さで、大好きな我が家。お楽しみに。

2010年1月2日土曜日

1月1日 謹賀新年

 あけましておめでとうございます。
 みなさんはどのような年末年始を過ごされましたか。
 私は年末年始ずっとゲタスル更生院の子どもたちと過ごしていました。
 昨年はこのブログを見ていただきありがとうございました。
 本年も残り約2ヶ月半の活動となりましたが、また応援してくださいね。
 今年1年が皆様にとって、素敵な1年になるよう、ここケニアからお祈りしています。
 それでは本年もどうぞよろしくお願いします。