2010年2月16日火曜日

2月6日 命のつながり

 「人の死」について、このブログで書いたことはない。むしろ書かないようにしていたといってもいいだろう。この2年間で何回身近な人の死を見てきただろう。ゲタスル更生院の子どもの死、同僚の死など。けど、今回の出来事で書こうと思った。

 この日、同僚の母が亡くなり、隣町のマチャコスまでお葬式に行った。そこには200名近い親族や近所の人などがたくさん来ていた。昼過ぎに着き、お昼ごはんをいただく。お葬式の前に、来た人にもてなしの気持ちを込めて昼ごはんをふるまう。故人が生前食べていた普段の食事を、最後の食事としていただく。

 そして食事の後、外の広場にイスや机などが設置された会場に行く。その小さな机には故人の入った棺桶をのせる。そして他の人たちはまわりにあるイスや地面に座り、故人との最期の時間を過ごす。血筋の濃い親族から棺桶の後ろにたって記念撮影。棺桶と一緒に写真をとる。そしてそのあとは、関係の深かったものからのメッセージ、そして牧師さんのお話(日本でいうお経のようなもの)があり、最後に棺桶を2メートルほど掘った地面の中に入れる。そして最後のお別れとして一人ひとりが、手に砂持ち、それを棺桶にかける。日本の火葬とちがい、土葬が主である。

 同僚の母は86歳まで長生きしたらしい。ケニアの平均寿命を考えると、かなり長生きをした。彼女はたくさんの子ども、孫、ひ孫に見守られた。彼女がいたから、たくさんの家族ができた。そんなとき、ふと「命のつながり」を感じた。

 これを逆に考えてみることもできる。私には両親がいて、4人の祖父母がいて、8人の曾祖父母がいて、その上には16人、またその上には32人、64人、128人・・・。というように私の命は、たくさんの人の「命のつながり」によって受け継がれている。その中のたった一人でも欠けていたら、私は存在していない。だから命って尊いものだし、素晴らしいものなんだって気づく。

 人間だけではない。動物だって、植物だってきっと「命のつながり」があるからこそ、今生きているんだと思う。だからこそ、どんな生物でも自分の死が来るまで、その生涯をまっとうしようと思うのだ。

 ケニアではどんなに貧しくても、どんなに苦しくてもその日その日を大切にしている。一日中木の下でおしゃべりをしたり、家の周りで子どもと遊んだり、親戚同士で助け合いごはんを分け合ったり。将来のことや未来のことを考えている人はごく一部で、一日一日を楽しく生きている。だからこそ、身近にある死も柔軟に受け入れてるんだろう。

 そう感じた、「命のつながり」。私にも今後、「命のつながり」となる子どもができ、そして孫ができ、ひ孫ができ、どんどん「命のつながり」が広がっていく。そう思うと、すごく自分の存在も大切に思えてくる。周りの人のことも大切に思えてくる。だからちょっと考えてみてください、「命のつながり」というものを。

 残り34日。

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