2009年5月29日金曜日

5月25日 ケニャイチロー ナンパされる

 一言ことわっておくが、「ナンパされた」のであって「ナンパした」のではない。この点を間違うと、うちの家庭が崩壊する・・・。妻方のお義母さんもこのブログを見ているし、日本で大騒ぎになるので間違わないでほしい。「ナンパされた」のだ。

 週末出勤の振り替えとして昼からお休み。久々にタウンに出ようとして意気揚々とマタツ(乗合バス)に乗り込む。しばらくしてNairobi University(ナイロビ大学)に到着。そこで一人のギャル(ギャルって古いですか・・・)が乗り込んでくる。空いてる席は俺の隣だけで、そこに座る。しばらくマタツは走り、そのギャルが話しかけてくる。耳元で囁くような小さな声で。

 “・・・・・・・・・・・・・・・” 「・・・・・・・・・・・」
 “ Ati!?” 「えっ!?」
 “・・・・・・・・・a student?” 「・・・・生徒さん?」
 “Ninafanya kaji katika Lower-Kabete.” 「ローワーカベテで働いてるんです。」

 上目づかいで話しかけてくるギャルは明らかに今まで出会った女性とはちがうオーラがある。声を小さくして近づけさせる作戦だ。そしてマタツは終点に近づく。

 “Unilipie nauli, tafathali.” 「私の分も払って、お願い❤」
 “Ati!?” 「えっ!?」

 本性を現しやがった!これが目的で近づいてきたんだ・・・。金。同僚やスワヒリ語の先生からケニア人女性のことは聞いていたが、はじめてお金目当てで近づいてこられた。ここが既婚者の腕の見せ所。

 “Sitaki. Ulipe!” 「いやだよ、自分で払えよ。」

 はい、終了。しぶしぶお金を出すギャルに見事に勝利。色気に惑わせれない自分が妙に誇らしかった。昔は惑わされてたかも・・・。やっぱりこれは妻への愛情(恐怖・・・)の大きさかな。それでも久々にモテたので、ついついにやけてしまった。これからも外国人相手に近づいてくるケニア女性には負けないと確信できた名勝負だった。

2009年5月28日木曜日

5月20日③ 同期の手作りピザ

 自慢じゃないが、物ごころついたときからピザには目がない。小さい頃おばちゃんの友達が働いているピザ屋さんに連れて行ってもらって、大好きになった。少年時代は高価なピザを食べる機会があまりなく、ピザには憧れのようなものがあった。社会人になり、イタリアンに行ってはパスタでなくピザを頼む。一人暮らしのアパートの冷凍庫の中にも常に冷凍ピザが入っていた。近くのスーパーで冷凍食品が半額になっているときは必ず行って、冷凍ピザを大量に購入していたのが懐かしい。その冷凍ピザを食べながら、ビールを飲むことが最高のぜいたくだったなあ。

 そんなピザをここケニアで食べることができるなんて思ってもみなかった。この日の夜は同期のマッキーの家で晩餐会。手作りのピザが出てきてテンションは最高潮。それにはやっぱりビールでしょう。おそらく一人で2枚分は食べたのではないかというほど、ピザを満喫しました。ひき肉にトマト、そしてピーマン。このオーソドックスが一番うまいんだよな。

 将来はでっかいオーブン買って、毎週のようにピザを作ってもらいたいわ。ああビール飲みてえ。

2009年5月27日水曜日

5月20日② シモラテワ少年院

 そして次に向かったのはケニア国内2か所しかない少年院の一つ、シモラテワ少年院。更生院と少年院、どのような違いがあるんだろう?同僚のフィリップと少年院の門に到着。・・・塀が高い、また門にきちんと鍵がしてある。この時点で全然ちがう。少しビビりながら、門をたたく。

 “Hodi!” 「すいませーん」

 そう言うと、銃を持った身長推定190センチの大男がやってくる。警察だ。ここでビビったらダメだと感じたので、名刺を渡し名前と配属先を名乗る。そうすると、意外と快く門を開けてくれ、笑顔で迎えてくれる。ビビって損した。

 そしてその人の上司がやってきて、その人のもとに通される。明らかに偉い人だということがわかる。しかしその人すごく笑顔で迎えてくれ、その後少年院を案内してくれた。ちょうどスポーツの時間が始まるということでそれを見学。

 ・・・でかい。みんなうちの更生院の子たちよりでかい。それも迫力がある。さすがにこの子たちにはまったくビビらなかったが、雰囲気や態度など少しちがっていた。現在この少年院の在籍している子どもたちは282人。うちの約3倍。人数から言っても全然ちがう。そして図書館やコンピュータルームなどがあり、教室もあった。授業はスタンダード7,8(中学1,2年生)だけで、他はない。そして家具作りや金属製品づくりなどの職業教育も充実していた。

 もちろん、日常の仕事もしている。薪を割ったり、ごはんを作ったり、掃除をしたり。この部分は更生院とは変わらない。そして驚いたこと、それは子どもたちの背景だ。更生院とほぼ変わらなかった。盗み、傷害、薬物や非行などゲタスルの子の背景とほとんど同じであった。正直どう違いがあるのか、まったくわからなかった。

 一つ違うこと、それは無邪気さがないこと。あいさつをしてくれる子ども、笑顔で迎えてくれる子など一人もいなかった。ゲタスルでは無邪気な子もたくさんいる。この少年院の子どもたちは、私だけでなく同僚のフィリップにも無愛想だった。

 そして以前ゲタスルにいた子もこの少年院にいることがわかった。更生院から送られてくる子も少なくないという、ここシモラテワ少年院。アットホームなゲタスルとはちがって、すべてがきちんとしている印象を受けた。更生院と少年院の違いを少し感じた訪問だった。

2009年5月26日火曜日

5月20日① リコニ更生院


 次の日の朝、同僚のフィリップとリコニ島に行くフェリー乗り場で待ち合わせ。そして、5分間のフェリーでの船旅を満喫し、リコニの町へ。そこでマタツに乗って約1分後、女性の悲鳴が聞こえる。

 “Ahhhhhhhh!!” 「あああああああ!!」

 泥棒だ。力づくで女性のカバンをひったくって一目散に逃げる。周りの人たちも大声で何か言っている。現場は一時騒然となり、私自身も興奮と怖さを抑えきれずドキドキしていた。そして、そのままマタツはリコニ更生院の前に到着。少し歩いてリコニ更生院に着くと、子どもたちは授業の最中。気付かれないように教室をのぞくと、予期せぬ訪問者に子どもたちも大興奮。俺の顔を見るなり、覚えてる限りの日本語のあいさつや歌で歓迎してくれた。

 「おやすみなさい」
 「ある日、森の中マサイに・・・♪」


 どう考えてもまちがった歓迎の言葉や歌だろうと心の中で突っ込みながら、俺の顔は笑顔に。しかし明らかに授業妨害になっている私は一時教室を離れ、更生院見学に。広い敷地に教室やダイニング、子どもたちの寮など大きな建物がたくさんある。そしてモンバサやリコニはイスラム教の子どもたちが多いので、敷地内にモスクまである。そして以前いたJICAボランティアが教えていたビーズ細工も見せてもらった。このビーズ細工はリコニ更生院の職業教育の一つとなっていて、今でも盛んに行われていた。このビーズ細工を職業として仕事についている卒業生もいるぐらいだ。

 そして久々に会うリコニの子どもたちとたくさん話をして、リコニ更生院をあとにした。正直安心した。それは授業がきちんとされていたこと、そして職業教育のビーズ細工も行われていたことだ。授業と職業教育、更生院にとってこの二つは大きな柱だ。子どもたちの未来のために更生院ができること、それはまずこの二つである。再び悪い色に染まらよう、更生院の役割は大きい。

2009年5月24日日曜日

5月19日 なんで・・・?

 初めての長期出張、2泊3日のモンバサへの出張である。子どもたちをモンバサにあるリコニ更生院に連れていくため、大型バスで早朝から出発する。バスに揺られること、約10時間、目的地となるモンバサに到着。私は同期の家に泊めてもらうようにしていたため、この日はモンバサのタウンに降りて、同期を待った。そして久々に同期と会って、マタツを探そうと歩いていた、そのときある男の子が走ってやってきて、

 “ ・・・Pesa.” 「・・・お金」

 と言って、手を差し出してきた。いつものことだから、驚きもしなかったが、男の子の顔を見た瞬間、衝撃が走った。

 “ Aa, ulikuwa Getathuru!!?” 「あっ、お前ゲタスルにいたろ!!?」

 なんと、ゲタスル更生院で私が英語や数学を教えていた男の子がそこに立っていた。そして私にお金を求めていたのだ。その子は俺のことに気づくと、その瞬間走って逃げて行った。何が何だか分からず気持ちの整理もつかないまま、また歩き出す。そうすると逃げた男の子がやってきた。申し訳なさそうに、しかしなんだか嬉しそうに。

 “ Umenikumbuka? Mini nimekukumbuka.” 「俺のこと覚えてるか。俺は覚えてるぞ。」
 “ ・・・Ken.” 「・・・ケン。」


 なんとか絞り出した声は少し震えていた。

 “ Unaitwa nani? Nimesahau jina lako.” 「名前なんだったっけ。忘れちゃったよ。」
 “ ・・・Vincent.” 「・・・ヴィンセント。」


 そうヴィンセントだ。人をからかうのが好きで、毎日のように友達とケンカしていたやつ。いつも怒ってたやつだ。赴任当初に1か月ほど教えていただけだが。そんな彼が今モンバサの町で、ストリートボーイになっていた。ゲタスル更生院からリコニ更生院へ移動し、そして脱走。どこにも行くお金がなく、ストリートボーイに。

 なんで・・・?ゲタスル更生院の職員である私にとっては、悲しすぎる現実だった。

 “ Urudi Getathuru. Ninakufundisha tena.” 
 「ゲタスルに帰ってこいよ、また教えてやるから。」
 “・・・Eh.” 「・・・うん。」


 そう言って、少しほほ笑んだ。うれしかったのか、ホッと安心したのか、確かに彼はほんの少し笑顔を見せてくれた。その笑顔をみたとき、ゲタスルにいたときの無邪気な彼を思い出した。そして彼はまた夜のモンバサへと戻って行った。

 やり切れない思いとショックな思いと、自分は何もできない無力さと、いろいろなものが混ざり合って、その夜何杯もビールを飲んだ。

2009年5月19日火曜日

5月15日 ゴミ箱を作る

 今週の職員会議で、マネージャーが言った。

 “ Shule lazima ikuwe safi kabisa!! Sitaki takataka ya nje.”
 「学校はきれいじゃないといけないんだ。外に落ちてあるゴミは嫌いだ。」

 うちのゲタスル更生院のマネージャーは日本人のように細かくしっかりしている。また私のよき理解者で、私の提案するイベントや学校運営に反対したことが一度もない。すべて受け入れてくれて、失敗するとそこでケニアの実情を踏まえていろいろ教えてくれる。このマネージャーがいるから、仕事が本当にやりやすい。

 ゴミをあちらこちらに捨てない。もっともな意見だ。うちの更生院では普段から、ゴミをゴミ箱に捨てるよう子どもたちに言っている。ゴミを拾うことを強調するのでなく、ゴミを出さない・捨てないということを毎日のように言っている。しかしゲタスル更生院の子どもたちは毎日新しいメンバーが入ってくるので、なかなか伝わらない。

 そこで今回考えたのは、ゴミ箱を作ることだ。もちろんゴミ箱を買うお金はないので、あるもので作る。今回使用したのは、私が飲み水として買って、余った5リットルのペットボトルだ。このペットボトルをゴミ箱になるよう、はさみで切る。そんな簡単なことだ。そして丁寧にピカピカになるまで洗い、すべての教室や部屋に置いた。

 そして次の日の朝礼の時間、出来上がったばかりのゴミ箱を見せながら、

 “ Shule lazima ikuwa safi. Kuanzia leo, Utupe takataka ndani ya hii chupa!”
 「学校はきれいじゃないといけないんだ。今日からゴミはこの中に捨てるように!」


 といった。そうすると早速効果が。授業時間、今まで鉛筆を削ってそのゴミをそのままに床に捨てていたのだが、ゴミ箱の上で鉛筆を削ってゴミ箱に入れるようになった。紙くずを教室に捨てず、ゴミ箱に捨てるようになった。

 当り前のことかもしれないが、ここケニア・ゲタスル更生院の子どもたちを考えるとすごい進歩だ。日本の学校では教室すべてにゴミ箱をおくことは当たり前だが、ここケニアでは当たり前ではない。当たり前のことを当たり前にできる、これがゲタスルの子どもたちにとって一番大事。そんなゴミをゴミ箱にいれる様子を見ながら、じーんとうれしさが心に響く。

2009年5月16日土曜日

ケニャイチロー事件簿 ケニャイチローバラバラ事件

 大事件発生。悪質極まりない事件がこのゲタスルで起きる。この衝撃写真・・・。なんと壁紙のケニャイチローの顔がやぶられたのだ。あまりにもひどい犯行に先生方も声が出ず。この更生院では毎日のように事件は起きてるのだが、こんな陰湿(いんしつ)な事件は初めてだ。ボランティアティーチャーのカフラが突然私のもとにやってくる。

 “ Ken, ○○□□××・・・” 「ケン、○○□□××・・・。」

 あせっていて何を言っているのかさっぱりわからない。もう少しゆっくり話せよと思いながら一緒に職員室の前へ。この職員室の前のドアには私が手作りで作成したケニャイチローの顔と日本語紹介の紙が貼ってあった。しかしそれが見るも無残な姿でやぶられていた。

 もちろん次の日の朝礼の一番の話題がこのバラバラ事件のこと。ソーシャルワーカー・チルドレンズオフィサーそしてマネージャー、3人もの人がこの事件に触れ子どもたちに話をしてくれた。

 「やった者は、正直にケンに言いなさい。ケンは許してくれるから。」

 そう言って、どの先生も締めくくってくれた。だが、もちろん犯人は出てこず。子どもを疑ってはいけないが、どう考えてもうちの子供以外考えられない。先生がするわけないし、この日はお客さんがいなかったし。うーん、とまあ迷宮入りしたわけです。

 けど思ったよりショックじゃなかった。日本で働いていたときも作った壁紙が壊されていたり、落書きがしてあったりといろいろあった。そういう抵抗ができていることも、5年間の教員生活のおかげだな。

「罪を憎んで、人を憎まず」。まさにこの言葉のように、子どもたちの一時の過ちを根に持つのでなく、これからの子どもの生活や態度を見ていくほうが大事である。このやぶられた私の顔はセロテープで修理して、また職員室の壁に貼った。まあわざとらしくマジックでやぶられた箇所に縫い目を描いたが。この傷がこれからも増えていくんだろうか・・・。この傷は勲章ではないけれど、子どもたちの心の傷の大きさと多さを物語っていると思う。

2009年5月15日金曜日

5月12日 ケリチョ更生院

 ケニアの更生院。ゲタスル更生院を入れて、現在7つある。

 ゲタスル更生院&レセプションセンター
 カベテ更生院
 ワムム更生院
 オザヤ更生院
 ケリチョ更生院
 リコニ更生院
 カカメガ更生院

 この合計7つである。一昨年の大統領選挙時における暴動が起きる前は合計9つあったのだが、現在は上記にあるような合計7つである。ゲタスル更生院からリスクレベルや年齢、また学年などによって各更生院に振り分けられ、ゲタスルを除く6か所へ子どもたちを連れて行く。

 さて、この日私は更生院の所有する車でケリチョ更生院へ子どもを連れていった。ケリチョはナイロビから片道4時間ほどかかり、かなり気候が寒い場所である。またケリチョは紅茶の茶葉の栽培が有名で、ここで作られる紅茶の茶葉は一級品である。ほぼすべてのスーパーで見かけることができる “Kericho Gold” 「ケリチョゴールド」の茶葉もここで作らている。

 今回は8人の年齢の小さい子を連れて行く。ケリチョ更生院は主に年齢の小さく。学年もスタンダード1~3(小学校1年生~3年生)までしか受け入れない。ゲタスルに比べても更生院の敷地は小さく、アットホームな感じのある更生院だった。そして小さなグラウンドでサッカーをしている子どもたちが、私たちを見るなり大喜び。

 “ Ken!!!!!” 「ケン!!!」
“ Kensan!!??” 「ケンさん!!??」


 この瞬間がまた嬉しい。身長120センチのわんぱくぼうやたちが一斉に寄ってくる。暑苦しい・・・、がなんかほっとした瞬間だ。一人ひとりの頭をなでながら、ケリチョ更生院での生活を聞く。すごく笑っていて、正直安心した。何人かの生徒が算数の本とチョークを持ってくる。

 “ Mwalimu, utufundishe!!” 「先生、授業してよ。」


 そう言って、笑顔で教室に連れていかれる。そして教室に入るやいなや、子どもたちは行儀よく席に座る。マジだ。ケリチョ更生院の先生の目もある中、ここでおしえるのますいのでは・・・と思いながらも調子に乗って掛け算を5分ほど教える。大好きな絵を描きながら教える算数に、子どもたちはまたまた大喜び。いやあ教師冥利に尽きるね。そして30分の滞在はあっという間に過ぎてケリチョ更生院をあとにした。

 この前ニエリで会ったストリートボーイの男の子(「5月9日受け入れがたい現実」参照)はこのケリチョ更生院にいたのだ。まだまだ小さな体にたくさんの夢や希望が詰まってる子どもたち。この子たちの未来が、明るいものになってほしいと願ってやまない。

2009年5月14日木曜日

5月11日 「ケンさん、かっこいい。」

 最近の私には笑顔がない。自分でもわかっていることなのだが、なかなか笑顔になることができない。子どもたちの良いところはあまり見えず、悪いところばかりが目にとまる。怖い顔をして、子どもたちを上から押さえつけている、そんな指導をしている自分がいる。

 なんとか笑顔で子どもに接しなきゃ・・・。そう思えば思うほど自然と笑顔になれないものだ。そこで私がしたこと、それはかなりの反則技である。

 子どもがダイニングでのんびりしている時間、そこで日本語を教える。今回教える日本語は二つ。

 「ケンさん、かっこいい。」
 「ケンさん、好き」


 ・・・まあいいよね。この二つを15分ほどかけてじっくり教える。もちろん意味もばっちり教えてます。そうするとこの日の夕方から子どもたちは嬉しそうにこの二つの言葉を話し始めた。

 俺の姿を見ると、「ケンさん、かっこいい。」
 朝「おはようございます」という前に、「ケンさん、かっこいい。」
 授業準備のために鉛筆をけずっていると、「ケンさん、かっこいい。」
 授業の間の休み時間になると、「ケンさん、かっこいい。」
 スポーツの時間のためにジャージに着替えると、「ケンさん、かっこいい。」
 たまにJICAのジャケットを着ていくと、「ケンさん、かっこいい。」

 言われるたびに笑顔になる。そしていつもこう答える。

 “ Asante, ninajua.” 「ありがとう、わかってるけどね。」

 いやあ、気分いいわ。けど、こっちが笑顔になるたび、 “Asante”というたび、子どもも笑顔になるんだよね。笑顔ってきっと相乗効果があるんだね。この日から、子どもたちと接することがまた楽しくなってきた。どんな形であれ笑顔になれるって大事だよね。とりあえず、この3ヵ月は子どもたちの笑顔を増やすことも俺の活動の一つだな。そう思いながら、今日も気分よく活動しています。
「ケンさん、かっこいい。」

2009年5月13日水曜日

ケニャイチロー旅行記 オルペジェタ保護区

 前日から先輩隊員の任地に来ています。先輩のみっちーさん(環境教育)はケニアの国立公園の一つアバデア国立公園に配属されており、素敵な家(通商みちこロッジ)に住んでいる。今回は2回目の訪問で、前日は先輩や同期と炭火焼肉をしたり、ロッジでぼーっとしたりしてリフレッシュした。

 この日はニャニュキという町にあるOL PEJETA CONSERVANCY(オルペジェタ保護区)に動物を見に行った。サファリカーを1日借り切ってのゲームサファリである。ここで驚いたのはサイの群れを見えたこととチンパンジーを見れたことである。

 サイを見ることができる国立公園や保護区は限られていて、群れで見えることは極めて珍しい。6頭の際の群れが静かに草を食べている光景がなんとも信じられなかった。

 またここケニアでチンパンジーを見ることができるのは、ここオルペジェタ保護区だけであり、ブルンジなどの他国から連れてこられたそうだ。普通のチンパンジーをただ連れてきたのでなく、さまざまな国で見せものにされたり、売られたりしていたチンパンジーを連れてきている。そんな背景のあるチンパンジー43頭がこの保護区で暮らしている。

 そしてゲームドライブが終わり、ニャニュキからナイロビ行きのマタツに乗った。ナイロビ到着20:10・・・。そんなに遅くナイロビの街にいるのは初めてだ。夜のナイロビにびくびくしながら急いで、自分の任地行きのマタツに乗る。ナイロビの夜の姿は昼とは違い、正直怖い。今度からもう少し早めに帰ろう。

 というように、この土日は1泊2日で先輩隊員の任地、保護区を見学しました。1か月に4日しかない休日をどのように過ごすか、これを考えるのがけっこう好きです。

2009年5月12日火曜日

5月9日 受け入れがたい現実

 おれのやっている活動って、本当にケニアの子どもたちのための活動なのだろうか?
 なんのために、英語や数学など教えているのだろうか?

 そう思える出来事がこの日起こった。先輩隊員に誘われ、先輩の任地・セントラル州ニエリの街に着いた昼ごろ。ストリートチルドレンの男の子たちが俺の元にやってきた。

 “ Twende kunywa chai huko hoteli.” 「そこの喫茶店にチャイ飲みに行こうよ」
 “ Umenikumbuka? Nimekukumbuka.” 「僕のこと覚えてる?僕はあなたのこと覚えてるよ。」

 そうやって話しかけてくる男の子たち。こうやって近づいてくる男の子たちはほとんどの町と言っていいほど、必ずいるものだ。この日なぜか、今まで言ったことのない言葉が出た。

 “ Ukuje Getathuru Rehabilitation School. Ninawafundisha kingereza na hesabu.”
 「ゲタスル更生院においで。俺が英語と算数を教えるから」

 そう言うと、子どもたちの一人が表情を変え、すごい勢いで話し始めた。

 “ Mimi nilikuwa Kericho Rehabilitation School. おはようございます!」
 「俺、ケリチョ更生院にいたんだよ。ほら、「おはようございます」」

 えっ。・・・。言葉が出なかった。てか信じることができなかった。以前いたケリチョ更生院にいた日本人ボランティアが教えた日本語も覚えていた。この子がケリチョ更生院にいたことがあるってことは、もちろんその前のゲタスル更生院にもいたことがあるんだ・・・。そう思うと言葉が出なかった。3年間の更生院生活を過ごしたのち、地元に戻ってまたストリートチルドレンに戻っていたのだ。勉強や職業教育もしていたはずなのに。

 このような子は少なくない。最長3年間の更生院生活を過ごしても、ストリートチルドレンに戻ったり、麻薬に再び手を出したり、犯罪に再び手を染めたり。更生院を出てからのアフターケアは全くなく、再び何もない地元に戻る。そこで子どもが待っているもの、それは希望とは程遠い。孤児の子は家族がなく一人で生きる術を探す。家族がいたとしても学校に行くお金がなければ、その日暮しの生活をする。それがたとえ悪いことであろうが、生きるためには泥棒や犯罪者にもなる。受け入れがたい現実だ。

 おれの教えている子どものうち、何人の子どもが3年後ふつうの学校に行って、何人自分たちの描いている夢をかなえるんだろう。今一緒に笑ってる子どもたちが、大人になってこんなに心の底から笑えるんだろうか。自分一人ではどうにもできない現実がここケニアには存在する。

2009年5月9日土曜日

5月6日 名刺完成!!


ついに完成しました、ケニア特製の名刺!!っていっても日本から名刺作製用ソフトを持ってきて、名刺の型紙も日本製だけど。けど、はじめに “Republic of Kenya” 「ケニア共和国」の名前やケニアの国旗も入れて、マネージャーの許可で所属しているケニアの省庁、ジェンダー・子ども・社会開発省の名前を入れました。

 ちなみになんでこのデザインにしたかというと、大都市ナイロビ郊外にある小さな更生院ということで、大都市の象徴であるビルと、その横の家のようなものが更生院っぽいと思って、このデザインに決めました。

 これで、いろいろな施設に行った時やお客さんがここゲタスルに来たときに、名刺が渡せます。来週の火曜日、長期出張でケニア第2の都市モンバサにあるリコニ更生院に子どもたちを送りに行くので、そのときに持っていきます。気が引き締まる思いがするわ。今日から先輩隊員が活動するアバデア国立公園に行ってきます。もちろん名刺をもって。それではみなさん、よい週末をお過ごしください。

2009年5月8日金曜日

5月5日 図書館司書デビュー

 期待のルーキーのデビュー戦。「図書館司書」としてまったくの初心者ルーキーが今日から図書館デビューだ。なんでこんなことになったのか。それは先週の職員会議にさかのぼる。

 “ We should make good use of library. We have a wonderful library. “
「もっと図書館を有効に使わないと。私たちにはすばらしい図書館があるんですから。」


 子どもの勉強時間を少しでも増やすこと、本を読むことでまったく集中できない子どもたちに集中力をつけさせること、それを目標に考え、議論したときのこと。まったく図書館としての機能を果たしてなかった図書館を動かすべく、先輩職員たちに言った。約500冊もある本も誇りでなく、埃(ほこり)をかぶってるし。そう言うとマネージャーが

 “ Ken, library belongs to Academic Section. So, you’ll become in charge of Library.”
「ケン、図書館はアカデミック(授業)担当のものだから、あなたが図書館の担当になれば。」
 “ Ati!?” 「はい!?」


 ということで、本日「図書館司書」としてデビューするに至ったわけです。思い起こせば中学の英語教師からここケニアで体育教師に始まり、算数や実技教科を教える小学校教諭、そして次は図書館司書。いやあいろんな仕事をさせてもらってるわ。私の9時からの活動内容は次の通りになる。

 9:00  授業開始 英語&算数(数学)
 10:40 授業終了 生徒のノート添削
 11:30 図書館解放・本の貸し出し
 12:30 図書の時間終了 生徒が本を返しに来る

 この図書館解放によって、子どもたちは毎日1時間本を読めることができるし、教科書を借りて自分で自主勉強だってできる。子どもたちには大好評だ。今までこの1時間はぼけーっとして、なにもせずテレビ見たりするだけだったもんな。

 そう自己満足にひたる間もなく問題が起こる。

 5分もせずに本を返す子。(本に載ってある絵を見ただけだろ・・・)
 本を返してもむちゃくちゃに置く子。(そういうルールも決めなきゃな)
 本が泥で汚れていること。(本を読む前にはまず手を洗うことだな・・・)
 リーディングルーム(本を読む教室)で元気一杯音読をする子。
  (いいことだけど・・・他の人の迷惑かな・・・)
 近くでとった木の実を食べながら、姿勢悪く本を読んでいる子。
  (まあ、家でポテトチップスを食べながら本を読むみたいなもんか・・・)

 などなど問題をあげたらきりがない。司書の先生の大変さをここケニアで感じることができました。けど全く集中力のない子どもたちに集中力を、週1回しか授業を受けることができない子どもたちに少しでも多くの勉強の機会を、知識も情報もない子どもたちにより多くの知識と情報を。チャレンジは始まったばかり。これからこれから。毎日11:30~12:30の1時間、子どもの楽しみの時間にしてみせるで。

 そして今まで埃をかぶってた本たちが、いつか子どもたちの誇りになるよう、「司書」としてもがんばっていくわ。そんな子どもたちが俺の誇りです。

5月4日 万華鏡☆

 土日は子どもものんびりする日。俺もこの土日はなるべくのんびりしょうと、たとえWeekend Duty(週末の仕事)が入っていても私服(ジーパンやTシャツなど)で仕事をする。まあ一週間の疲れをこの土日で癒すのは子どもも先生も同じだ。(・・・まあ休めることはあまりないが・・・)

 一日暇そうにしている生徒に私が準備したのは万華鏡。それも手でくるくるまわさなくても、勝手に模様が変わるちょっと高価な万華鏡だ。これはこの3月に嫁が来たときに持ってきてくれたものだ。なんでも俺のおふくろが、ケニアの子どものためにと買ってくれたものらしい。ということで、約100人いる子どもたちに万華鏡を順番に見せた。

 “Maridadi” 「きれい」
 “Mwalimu, nipatie!” 「先生、俺にも貸してくれよ」
 “・・・Sitaki.” 「いやだ」

 そう言って、はじめのうちは独り占めする。みんなの興味を引くためのものだ。この時点で子どもたちの興味は万華鏡に一直線。そして子どもたちに見せると、

 “ Wow, maridadi kabisa.” 「うわあ、すげえきれい」

 と大感動。ずっと独り占めするボス猿もいるので、一人10秒と決めて長蛇の列と化した子どもたちに平等に見せていく。それでも一度見たものはまた列に並ぶ。長蛇の列はなかなか減らない。そうして約20分後、ようやく子どもたち全員に見せることができた。

 この万華鏡が子どもたちにどう映ったんだろう??現代のおもちゃは玩具(おもちゃ)ではないよな。どんどん科学は進歩してるから、こういう古い玩具が減ってるよなあ。けど、こどもの喜ぶ顔を見るとやっぱり古い玩具も立派なおもちゃなんだなあ。うんうん。なんだか妙にメンコがしたくなってきたな。今度はメンコに挑戦かな。

2009年5月7日木曜日

5月3日 明浄学院高等学校からの贈り物


 遠い日本から海をわたってやってくる届け物。この届け物が届くたびに日本とケニアの距離がほんの少し近づいたのかなって感じる。今回もやってきました、大阪府にある明浄学院高等学校からのお手紙である。

 昨年度明浄学院の生徒さんと交流をして、交流の最後にこちらから手紙を送ったのだが、その返事がやってきた。日本の生徒さんが一生懸命書いてくれたんだなってわかる英語の手紙。高校生らしい表現に、思わずこちらも表情が緩みます。年齢や趣味のほか、クラブ活動や学校のことまでくわしく書いてくれてました。

 さて手紙を色画用紙に貼り、壁紙として教室の黒板の下に貼ると、その瞬間からうちの更生院の子どもたちが集まってくる。日本の生徒(→女の子)から手紙が来たとあって、大興奮。日ごろそんなに英語の本や文なんて読まない生徒が真剣に英語の手紙を読む。その光景がまた初々しい。なかにはベストポジションを確保しようと押しあったり、殴りあったりしている生徒も。さすがにそこは愛のゲンコツ。女の子のことになると必死になってしまう子どもたちです。

 さてまた自己表現活動として、日本の生徒さんに手紙を書こうかな。この手紙の時間が一番、子どもたちは授業に集中します。物音一つたてず、英語学習するし。今年度もどんどん交流をする予定です。日本でこのブログを見ている方々、この更生院の子どもたちと交流してみませんか。

5月2日 餅を食う

 ケニア隊男性の中で唯一体重の増えてる私。この日も驚くほどたらふく食べました。日本から嫁が持ってきてくれたアンコときな粉。この日の夕食のメニューは餅である。特にアンコ餅ときな粉餅は大好きで、最高時一度に10個は食べてたぐらいだ。

 ケニア風鍋(通商スフリア)に水と餅を入れる。沸騰したら火を消し、2分ほど待つ。俺でも簡単にできる餅である。そしてアンコときな粉をまぶして食べる。日本人に生まれてよかったと感じるほど、単なる餅でも大感動できるここケニア。この日も小餅3個、鏡餅用の大餅2個をたいらげました。

 レトルトの餅でもこんなにうまいのに、餅屋の餅で出来たてだったら、どんなにうまいんだろう・・・。「餅は餅屋」。日本にいるみなさん、日本の文化である餅を食べに行ってくださいね、近所の餅屋さんに。そしてまた餅をケニアに送ってください。よろしくです。

2009年5月6日水曜日

5月1日 職業教育 パン作り

 ゲタスル更生院の真向かいにあるカベテ更生院。ケニア全土から来るさまざまな男のたちは必ずゲタスルで3ヵ月過ごすのだが、その後国内6か所の男子更生院に移動する。その中の一つがカベテ更生院だ。

 このカベテ更生院では子どもたちは最長3年間を過ごすわけだが、ゲタスルとは違い授業は毎日あるし、職業教育も充実している。まさに子どもの人生の次のステップを導く更生院なのである。ここでは同期のJOCVシンヤ(青少年活動)が活動している。

 今回はそのカベテ更生院で行われている職業教育の一つ「ベーカリー」(パン作り)を見学させてもらった。白いエプロンに身を包んだ子どもたちが、甘いにおいのたちこめる教室で必死にパンの生地をこねたり、型をとったりしていた。私が見ているのも気づかないほど真剣に。と、ある一人の生徒が私に気づく。

 “Mwalimu!!” 「先生!」
 “ Ken-san” 「ケンさん」


 そう言って近寄ってきては一人ひとり握手をしてくれた。でも今パンを作っている最中なのに俺と握手していいのか!?てか、その手でまたパン生地をこねてるけど、パン作りの先生は何も言わないのか!?そういうツッコミを心の中でしているが、そこはさすがケニア。衛生なんて知ったこっちゃない・・・。

 そして見事に焼きあがったパンを取り出す。みんな嬉しそうだ。その甘い匂いは外まで出ていって、パン作りをしている子どもたちの他にもたくさんの子どもたちを呼んできた。みんな食べたそうにしているが、これは地域の人の売り物になるから食べることはできない。私も出来たての食パン1斤を30シル(約40円)で買い、そのまま丸かじりで食べた。これがまた柔らかくて、ほくほくで、優しい味がしてうまいことうまいこと☆昼ごはんを食べた後だったけど、ばくばく1斤をわずか10分で食べたよ。

 ゲタスルを卒業した子たちがどのように他の更生院で生活しているか、すごく気になる。ゲタスルの先生からすれば当たり前だけど。けど、こんなうれしそうに職業教育をしているところを見ると一安心。この中にほんとにパン屋さんになる子っているかなあ。って子どもの未来に胸が膨らみます。がんばれよ。

2009年5月5日火曜日

4月下旬 理科実験教室

 今週はイベント尽くし。4月最後のイベントして開催したのは、同期のケニア隊員による理科実験教室。今回ゲタスルのために来てくれたメンバーはきゃくちゃん(理数科教師)、ミラちゃん(理数科教師)、マッキー(養護)そしてきょうこさん(幼稚園教諭)の4人だ。きゃくちゃんとミラちゃんの考えてくれた理科の実験を4人が丁寧に子どもたちに教えてくれるというものである。

 今回は静電気の実験をしてくれた。またスタンダード5,6の子たちには虹についても話してくれた。静電気の実験に用意してくれたのは風船とナイロン袋で作った小さなボンボン、そしてアルミホイルでくるんだ紙コップだ。

まずはじめの実験は風船とジャージの摩擦により再電気を発生させて、それを使ってボンボンを浮かせるというものだ。子どもたちははじめ、半信半疑ながら風船をこすり始める。そしてこすった風船にボンボンを近づけると・・・

 浮かない・・・。むしろ風船にひっつく。あれっ、おかしいなあ。そういう不思議な顔をする。しかしひっつくことはひっつくことで嬉しそうだ。何度も挑戦する。そして・・・

 “ Gai!?” 「うおお!?」
 

 ついに成功しました。ボンボンが何度も浮かびました。子どもたちはまたまた大興奮。このときの子どもって、ほんまええ顔するんよなあ。そして次の実験(紙コップに静電気をためて、アルミホイルを触るという実験)でもええ顔して、楽しんどった。まあアルミホイルを触ろうとしたときの、子どものビビった顔、これも必見だったわ。

 というわけで、この理科実験教室はすごく子どもは喜んでた。次の日に

 「あの理科の先生たちは今度いつ来るの?」

 って言ってたし。今回のイベントも大成功。子どもにいろんな人と接する機会を与えるとともに、たくさんの経験をさせることも大事だなあと改めて思った。

2009年5月4日月曜日

4月下旬 かえるの歌

 この日やってきた方はケニアに住む日本人のケニア婦人会「サイディアーナ」の皆様。11人ほどの方がやってきて授業を見学したり、更生院の施設などを見学したりした。ここゲタスル更生院はナイロビ郊外にあり、交通の便も良いためたくさんのお客さんが来る。今回は婦人会の皆さんに日本の歌を紹介してもらった。

 今回子どもたちに教えてもらった歌は「かえるの歌」である。黒板に丁寧にローマ字で歌詞を書いて、子どもたちにわかりやすいよう、一緒に何度も歌ってもらった。そして「かえるの歌」と言ったら輪唱だ。初めて歌う輪唱にとまどいながら、子どもたちは驚き笑い、 歌ってたなあ。

 「かえるの歌が (かえるの歌が)・・・」

 その後子どもたちにバナナやビスケットなどの食べ物を配ってもらったり、子どもたちに話しかけてもらったりして、楽しい時間を過ごしました。ここで婦人会の方とたくさん話ができて仲良くなれたので、婦人会の方々の力も借りて何かイベントができないものかといろいろ企んでます。

4月下旬 日本文化紹介のイベント

 イベント。これも私の職種である「青少年活動」のできる活動の一つである。単なる活動でなく子どもの気持ちに残る活動、そんな活動をイベントを通してしていくことも、これからしたい活動の一つである。

 そこでまず考えたのが、せっかく日本人の私と接することができるということで、もっと日本のことを知ってもらおうとケニア日本大使館の方々を呼んで、日本語教室と日本の映画鑑賞会をした。

 いつもご飯を食べるダイニングにたくさんの機材が運ばれる。その時点で子どもたちは興奮をおさえることができない様子。最近更生院にある楽しみの一つであるDVDのデッキが壊れたため、最近は映画を見ることができなかった。そのせいもあって、映画機材が運ばれるのを見て、大喜びしてた。

 午前中早めにクリーニング(洗濯)をすませ、10:00いよいよ日本語教室開始。ケニア日本大使館の現地スタッフが日本語を教えてくれる。普段教えている日本語だけでなく、新しく教えてもらう日本語に興味津津。最後は会話まで流暢に言える子がいた。

 「私はデニス・カマウです。」

 そう発表する子をほめてやると、顔をくしゃくしゃにして喜んでた。いやあこういう機会もいいなあ。

 次に日本の映画鑑賞会。今回用意してもらった映画は「シコふんじゃった」。これは相撲をテーマにしたおもしろムービーだ。これがまた子どもたちに大ウケ。個性豊かな俳優の仕草や行動など楽しかったようだ。小さい子にとっては難しかったかもしれないが、映画を見ることができるっていうのが、すごく楽しかったみたい。

 そしてたった3時間の日本語文化紹介のイベントも終了。たくさんのことを通して日本のことを知ると同時に、日本に興味を持った子がたくさんいた。次回は6月下旬にしようかな。イベントを通して、何か伝えることができたら。これからまだまだ試行錯誤して、イベントの効用を考えていこう。

2009年5月1日金曜日

4月下旬 鉾立小学校からの贈り物③

 次の日の朝礼。子どもたちに歯ブラシを渡す。この歯ブラシも鉾立小学校の皆さんが送ってくれたものだ。これまでは小さな枝を拾ってきては、歯の表面だけを一生懸命磨いていたゲタスルの子どもたち。それが今日から歯ブラシデビューだ。

 その日のごはんを買うお金さえなかった子どもたちもいる。歯ブラシなんて買ったこともなければ、歯ブラシで歯を磨いたことさえない子もいた。そんな子どもたちの虫歯予防のための、大きな味方・歯ブラシが子どもたちの手に渡った。

 この日の朝から、すごくうれしそうに毎日歯を磨いている。子どもたちは他の子どもに盗まれないよう、いつも肌身離さず持っている。ズボンのポケットの中はもちろん、紐(ひも)をくくって常に首にかけている子どももいる。まるで宝物のようだ。

 当り前のことだけど、当たり前にできない現実がここにはある。いろんな男の子がここゲタスルにやってくる。当たり前のこと・・・「ごはんを食べる」、「安心して生活する」、「学校に行く」、「体を洗う」、「歯を磨く」など。そんな当たり前のことを当たり前にできなかった子どもたち。だからたった一本の歯ブラシが、子どもたちにとって大事な大事な宝物になる。

 日本で、大事な宝物が「歯ブラシ」って言える子っているだろうか・・・。けどそんな子どもたちの大切な宝物「歯ブラシ」を届けてくれた鉾立小学校のみなさん。みんなが送ってくれた歯ブラシは、ここケニアのゲタスル更生院で毎日子どもたちが使う宝物になってるよ。鉾立小学校のみなさん、保護者の皆様、地域の方々、そして先生方、本当にありがとうございました。

4月中旬 鉾立小学校からの贈り物②


 たくさんの想いが入った日本からの贈り物が届きました。岡山県玉野市立鉾立小学校の皆さんからの贈り物だ。

 この贈り物のために鉾立小学校の皆さんはたくさんの活動をしてくれた。全校に呼びかけて集めてくれた歯ブラシ、そしてバザーのときに手作り喫茶店で紅茶やドーナツを売って、そこの売上金からサッカーボールを買ってくれからまた日本からのケニアまでの輸送料まで自分たちで払ってくれた。そんな努力、温かさがたくさん入った贈り物が無事、ここケニアのゲタスル更生院に届きました。

 まず、その贈り物を先生たちと一緒にあけ、子どもにどのように渡せばいいか考える。送られたものにただ喜ぶのでなく、感謝する気持ちを育てたいからだ。そして朝礼の時間、前に出て鉾立小学校からの贈り物を説明、どのように日本の子どもたちがボールを買ってくれたか、どんな想いで送ってくれたか、説明した。

 子どもたちはその説明を聞いたあと、今までに聞いたこともないぐらいの大きな声で、
 
 “ Asante!!” 「ありがとう」

 って言った。海を超えた遠い友達に対する精一杯の感謝の気持ちだった。このAsanteが日本に届くといいな。この日からサッカーボールがなかった子どもたちは、思い切り走りまわって、ボールを追いかけてました。こうやってケニアの子どもと日本の子どもがつながるって、うれしいな。これからもそんな橋渡し役でいたいって思った一日だった。