2009年12月30日水曜日

12月25日 クリスマス


“ Merry Christmas!” 「メリークリスマス!」

 そう言って、早朝から子どもたちが迎えてくれる。今日は1年に1度のクリスマス。この日をケニア人は盛大に盛り上げる。そんな日だからこそ、私も子どもたちの思い出に残る日にしたいと思った。

 この日の午前中は牧師さんが来て、子どもたちにクリスマスの日におけるキリスト教の教えを伝える。子どもたちもいつもより真剣に話を聞く。そして、まずはクリスマスプレゼント第一弾としてクッキーとキャンディーが配られる。そんな大切なクッキーを持って子どもたちが私のところに来てくれる。

 “ Mwalimu, shika.” 「先生、どうぞ」


 そう言って、何人もの子どもたちが、たった3切れしかないビスケットの一つを私にくれた。いつもなら、すぐにポケットにいれて何回もビスケットをとったりするような子どもたちだ。しかし、こんな優しさも子どもたちは持っている。

 さて午後になりいよいよ待ちに待ったごはんの時間。この日のごはんの内容は次の通り。

 Mchele(ごはん)
 Ndengu(デング豆)
 Nyama(肉)
 Embe(マンゴー)
 Soda(ソーダ)

 という内容。子どもたちは自然とテンションが上がっていた。おいしそうに食べる子どもたち。ここでも子どもたちは一人50グラムほどしかない小さな肉のかたまりを私にくれようとする。肉なんてほとんど食べることができなかった子どもたちだ。そんな子どもたちが笑顔で私に肉をくれようとするのは、うれしくて涙が出そうになる。

 そして、午後になり子どもたちへのフェイスペインティングをはじめる。顔にそれぞれいろんな模様や絵を描いていく、ペインティング。クリスマスだからこそできる、活動の一つだ。絵具やパレット、筆を準備しいよいよスタート。これでも画家の血をひいているケニャイチローです。(親父が画家なので)正直、小学校や中学校の作品展では入選が最高で、本当に俺は親父の子どもなんだろうかと悩んだ時期もありましたが、芸術家ほど後継ぎが難しい職業はありません。早々とあきらめ、教師の道を歩んでいる私です。そんなことはどうでもいいですね。

 さて何人もの子供たちにさまざまなペイントをしていきました。子どもたちにもパレットや筆を渡して、友達同士でペインティングをさせたりして、すごく笑った時間でした。こんなに笑ったのは、ここゲタスル更生院に来て初めてじゃないかというくらい笑いました。子どもたちも友達と顔を見合わせては、大爆笑してました。その中には “MVP” や “FBI”というような言葉を額に書いている子までいて、自由奔放な活動ができた時間だった。そして楽しい時間はあっというまに過ぎ、子どもたちのクリスマスは幕を閉じた。

 子供たちにとって今までのクリスマスはどんなものだったんだろう?家でお祝いできる子もいれば、ストリートでゴミを拾っていた子もいるかもしれない。ただ少なくともこのゲタスル更生院で過ごしたクリスマスは思い出に残るんじゃないかな・・・そう思うと心も体もホカホカで、自然と笑みがこぼれた。もしケニア人の言うように本当に神様がいるのなら、子どもたちがこの先、誠実にまっすぐに生きていけますように。

 メリークリスマス。

2009年12月29日火曜日

12月24日 クリスマスイブ


 メリークリスマス。クリスマスイブです。

 ケニアでは日本と違い、クリスマスイブはそんなに盛り上がったりしません。どちらかというと、この日の午前中には仕事を切り上げて、クリスマスの日(25日)のために食べ物を用意したり、プレゼントを用意したりする日のようです。この日はスーパーやお店は大忙し。そんなクリスマス準備の日です。

 さて、ここゲタスル更生院でもクリスマスにむけてのイベントと準備が行われました。まずJICA婦人の会「サイディアーナ」の方々に来てもらって、一緒にレクリエーションをしたり、クリスマスの歌を歌ったりした。子どもたちは思わぬゲストに大興奮。楽しそうに活動したり、歌を歌ったりしてました。そして最後には婦人の方々手作りのキャロットケーキがみんなに配られ、おいしそうにケーキをほおばっていました。

 次に午後から子どもたちと一緒に折り紙でペーパーチェーンを作った。次の日のクリスマスと新年に向けて、ダイニングをデコレーションした。またみんなで「Merry Christmas & A Happy New Year」という看板を作った。このようなイベントに対する準備は子どもも喜んで協力する。そして作り始めること3時間、見事にダイニングはクリスマス仕様にデコレート(飾り付け)された。

 “ Merry Christmas!” 「メリークリスマス!」

 そういった声があちらこちらから聞こえた。明日を迎えるのが待ちきれないように、子どもたちの笑顔がはじけていた。1年に一回の大きなイベント。おそらく私が担当するイベントの中で最も大きく、最後となるイベント。そんな素晴らしい明日になると確信して、更生院を後にした。

 という私は、その夜子どもたちより一足早くクリスマスパーティをJICA職員さんと楽しむ。近くの日本食レストランでカラオケ。4時間飲んで、食べて、歌っての大盛り上がりのパーティでした。

2009年12月23日水曜日

12月16日 時代劇流れてほしいなあ。

 アフリカに住んでいる人なら、だれしもが経験したことがあるだろう。アジア人というだけで、馬鹿にされたりからかわれたりすることを。

 “ Hei, Chin Chon Chan.” 「へい、チンチョンチャン」
 “ Chinese!” 「中国人!」
 “ Jackie Chen!” 「ジャッキーチェン!」
 “ Jet Lee!” 「ジェットリー!」


 などなど。また顔を見るなり、カンフーや空手の型をするケニア人もいたりする。彼らの固定観念の中には「アジア人=カンフー(空手)ができる」といったものがあるんだろう。カンフーと空手も違うのに、アジア人というだけでそのように見られる。

 日本で言う昼のドラマ(昼ドラ)の時間にけっこうカンフー映画をケニアのテレビ局は放映している。それも俺が生まれて間もないころ、1980年代のものやそれ以前のものが多い。うちの更生学校の子どもたちをはじめ、ケニア人はこのカンフー映画が大好きだ。しかしせっかくの国際理解の場でありアジアのことを知る機会であるのに、ケニア人にとって日常でよく見るテレビのカンフー映画が唯一の国際理解なのである。なんとも悲しいことだ。

 そんな大昔の番組を見て、今の日本や中国にはカンフーの使い手がたくさんいると思われたくない。かといって「カンフー映画」の代わりに「時代劇」が毎日放映されてもなあと思う。中国の昔を表しているカンフー映画の代わりに、日本の昔を表している時代劇。

 時代劇をたくさん見て、やっぱりケニア人は日本人は現在も着物を着ている、武士は刀を持っている、ちょんまげであるって思うんだろうか。カンフーの代わりに、ちゃんばらごっこをしてくれるのなら、すごく可愛げがあるのに。おれも一緒になってちゃんばらごっこをするのに。

 しかし、それでも時代劇が流れてほしいなあ。

 “ Hei, Odaikansama!” 「へい、お代官様!」
 “ Japanese!” 「日本人!」
 “ Matsuken!” 「マツケン!」
 “ Matsukata Hiroki!」 「松方弘樹!」


 なーんてケニアで言われたら、同じからかわれても、ちょっとうれしくなるかもなあ。そんな淡い夢を描きながら、クロケンはがんばって生きてます。

2009年12月20日日曜日

12月9日 隊員総会&大使公邸食事会


 この日から始まった隊員総会。隊員総会では各委員会(幹事会、ドミトリー委員会など)の活動報告や計画からはじまり、グループディスカッションや発議などが行われる。年に2回(6月、12月)開催されており、ケニア全土で活動しているほとんどすべての隊員が集まるので、ちょっとした同窓会のような感じがする。

 また二日目には、個人の活動発表があったり、グループ活動発表やボランティア調整員の発表があったりと盛りだくさんである。今回はドミトリー近くのホテル「オリーブガーデン」で開催されたということもあり、大変スムーズに隊員総会が行われた。新しい隊次の人や短期ボランティア、シニアボランティアの方とも話す機会が多くあり、すごく充実していた。いつの間にか、古いほうの隊次になったんだなあと感慨深く思えた。

 さて初日の隊員総会後、隊員全員で日本大使公邸のお食事会に出かけた。大使との話を目的というよりは、みんなそこに出てくる食事のほうがかなりの目的だったように思う。大豪邸に着き、玄関で大使と奥様が迎えてくれる。この時点で、もう緊張である。そしてミニバーでビールをいただき、話をしながら庭をまわる。と庭といっても半端ない大きさなんです。東京ドームでいうと・・・てか東京ドームに行ったことがないからわかりませんが。

 そして大きな部屋に入り、大使のお言葉、JICAケニア所長のお言葉などがあり、そしていよいよ食事。いやいや、ケニアに来てこんなごちそうは見たことがないというようなごちそう。

 寿司(マグロ、サケ、タイ、ちらしずしなど) 約15こ、ちらしずし特盛り
 てんぷら(海老、パプリカ、茄子など)    海老10尾 野菜少し
 焼肉(牛ステーキ、鶏肉など)        牛ステーキ、鶏肉特盛り
 カレーライス                  食べてない
 タイのから揚げ(天ぷら?)         3切れ
 サラダ盛り合わせ              食べてない
 漬物やおひたし、胡麻和えなど        少し
 デザート(ケーキ、抹茶ババロア・ミルクと小豆のババロア・白玉だんごなど)
                          甘いものが大好きなのでたくさん

 ていうか、お酒を飲むのももったいなくて、食べ物ばかり食べてました。隊員全員がかなりテンションが上がってたような気がします。隊員のほとんどは食事が始まって、大使や奥様と話をしてないのではないだろうか・・・。私は最後のほうに大使の近くの席に座り、ちゃっかり話をしました。その時にはお腹がいっぱい過ぎて、もう何も食べることができなくなってましたが。すごく気さくな方で、笑顔で話を聞いてくださった大使と奥様。最後も玄関まで見送ってくれて、大変恐縮でした。心もお腹もいっぱいになって、その後タクシーでカベテへ帰りました。次の日には韓国焼肉だったので、また体重が・・・。

2009年12月18日金曜日

勇気?それとも短気?

 「義を見てせざるは勇なきなり」

 という言葉が新渡戸稲造が書いた「武士道」という本にある。これを肯定的に言い直すと、「勇気とは正しいことをすることである」となる。

 しかし、ここケニアでは正しいと思うことをする場合、あまり良いように思われないように感じる。

 「事なかれ主義」という言葉もあるが、ケニア人のほとんどはいたってそういう考え方なのだろうか?そもそも気にしない性格なのだろうか?それともそういう文化なのだろうか?

 たとえば、
 酔っぱらいが学校に入ってきて子どもや女性の先生たちにちょっかいをかけていたら、あなたならど  うする?
 同僚が自家用車を学校の子供に洗わせていたら、あなたならどうする?
 同僚が仕事中に酒を飲んで酔った勢いで子どもを殴っていたら、あなたならどうする? 
 大事な会議の最中に同僚が新聞を読んでいたら、あなたならどうする? 
 子どもを使って、私のオフィスから寄付された靴を自分のものにしようとする同僚がいたら、あなたならどうする?

 私はすべての事例で、その人たちと話し合いをし、ときにはケンカをしたりしたときもあった。しかし、最終的に言われる答えはいつもこう。

 “ This is Africa.” 「ここはアフリカだから。」
 “ This is Kenya.” 「ここはケニアだから。」
 “ Japan is a developed country. Kenya is a developing country.”
「日本は先進国だけど、ケニアは途上国だから。」


 そして文化の違う私は、こういわれている。

 “ Ken hajui hapa ni Kenya.” 「ケンはここがケニアだってことをわかってない。」

 同僚たちのお決まりのセリフ。そのたびに心を折られていた。そのたび何が正しくて、何が正しくないのかを本気で悩む。正直、何度日本に帰りたいと思ったことか・・・。初めの赴任時に比べると、めっきり笑顔も減ったように思う。こんな男が子どもたちを笑顔になんてできるわけがないわな。

 1年半がたって慣れた部分とどうしても慣れない部分がある。そのすべてをケニアだからって割り切ってしまったら楽なんだろうなあ。今回は事例の一番上の酔っぱらいが学校に入ってきたことで、またイライラがたまってしまった。短気なんだろうな、きっと。何があっても手は出してはいけないと思います。それだけは我慢しよう。

2009年12月17日木曜日

12月8日(補足) 実は、これが・・・

 と実は私が作ったのはこの英語のスピーチ。昨日載せた英語のスピーチは、JICA現地スタッフが手を加えたもの。俺にとっては抵抗があるのだが、JICA代表であるためそれを読んだ・・・。これが私のそのままの気持ちを書いている英語のスピーチ。

 見てもらったらわかるように、ほとんど中学校で習った文法や単語でできています。中学生の皆さん、副大統領の前で発表するスピーチでさえ、中学校の既習英語でできるので英語の勉強がんばってくださいね。 

 しかし中学校で英語を習ってた頃、まさか自分が一国の副大統領の前で英語のスピーチをするなんて思わなかったなあ・・・。次回のスピーチは新しい職場となる中学校で、自己紹介のスピーチだな。


 My pleasure to meet you, Mr. Vice president.
My name is Kenichiro Kuromyo. I’m a member of Jica Volunteers.
I came here Kenya in June, 2008. When I was in Japan, I was teaching English to Japanese students for 5 years. Then I was also a classteacher.

 When I was in secondary school, My dream was to be a teacher and to come to African countries to teach Children. And I wanted to work as a JICA volunteer. 3 years ago, I visited my friend in Paraguay, one of South American countries. She was also a JICA volunteer. She enjoyed her job and made children laugh and smile. Then I decided to be a JICA volunteer and come to African country. So, Now I’m very happy to be here.

Now, I’m working at Getathuru Rehabilitation School in Lower-Kabete.
There are street boys, orphans and children who reject to go to school. They are from ten years old to eighteen.
This school is also called Reception Center. The boys spend 3 months to be classified to next rehabilitation school. And they spend 3 years totally.
My job is teaching them Physical Education and arts and craft. I tell them the importance of friendship and teamwork through Physical Education Class. And they get motivation of making something through arts and craft, for example drawing, metal art and so on.

First it was really hard for me to teach them, because they didn’t listen to me, didn’t look at me, and didn’t study hard. In addition, my communication skills of Swahili was very poor. But my colleague helped me and advised me how to communicate and teach them. I think that it’s important to help each other, Kenyans and Japanese. That is “Harambee” and “Tuko pamoja”.
I am here not only to volunteer and help Kenyan, but also to be good friends with Kenyans, to know each other and to help each other.
Now, I enjoy my job. I think that my job is to make them laugh and smile.

I have just 3 months to stay here. It’s no t so long, but I want to do my best, to stand by children and make their smile.

Thank you for listening.

2009年12月15日火曜日

12月8日 副大統領訪問

 早朝からめったに着ないスーツに袖を通す。そして、ワイシャツのボタンを一番上までとめ、ネクタイをする。久し振りのスーツとネクタイに違和感を感じながらも、程よい緊張感が体を包む。

 この日、ナイロビのホテルで行われる副大統領訪問。そこでボランティア代表としてスピーチをすることになっており、久々に話す英語のスピーチの前に少し緊張していた。原稿を何度も読み直し、発音などのチェックをする。けど、大統領でなくて副大統領だからといったことで、変な落ち着きさえあった。

 そして福大統領が姿を見せる。笑顔で部屋に入ってきて、背が低く単なるケニア人のおっちゃんに思えた。それがまた緊張を解きほぐしてくれた。そしていよいよ、スピーチの時がやってきた。子どもたちが描いた絵やメタルアートとして作った眼鏡も一緒に持っていき、スピーチの途中で副大統領に手渡した。そうすると、副大統領が子ども手作りの眼鏡をかけてくれたのだ。これがなんともうれしかった。

 さてスピーチの内容は下記の通りです。日本語訳はつけてませんが、よかったらご覧ください。

My pleasure to meet you. Hon. The Vice President.
My name is Kenichiro Kuromyo, and I am a JICA volunteer. I came to Kenya in June 2008. Before I came to Kenya, I was teaching English to Japanese students for 5 years.

As a student in secondary school, my dream was to become a teacher in Africa as a JICA volunteer. I like teaching children and I was inspired by a friend whom I visited 3 years ago in Paraguay. My friend enjoyed teaching and made children laugh and smile. From then on I decided to be a JICA volunteer in Africa. So, here I am and happy to be here.

I teach at Getathuru Rehabilitation School in Lower Kabete, a school which houses street boys, orphans and children whom to some reason refuse to go to school. The boys age between ten and eighteen years old. As a reception centre the boys spend three months before joining a fully fledged Rehabilitation school for three years.

My job is to teach them physical education and arts and crafts. In class, I tell them the importance of friendship and teamwork through physical education class. By so doing, the boys become motivated and creative in arts and crafts. Some have become very good in metal art.

At first is was very difficult for me to teach them because they could not listen, could not look at me and they could not work hard. And in addition my skill in Swahili at that time was poor. But I got a lot of support and encouragement from colleagues which are very important to a teacher. In Kenyan perspective that is ‘’HARAMBEE’’ and ‘’TUKO PAMOJA’’

Here in Kenya I am not only a volunteer to help Kenya, but a good friend to Kenyans. Through sharing our cultures we have become helpful to each other and known each other better.

I haven’t achieved my goal. ‘’I MAKE THE CHILDREN I TEACH LAUGH AND SMILE’’
I have 3 months left to go back to Japan; it is a very short time but will do my best and stand up by my children and make them smile.

Thank you for listening.

2009年12月14日月曜日

12月4日 チキンラーメン


「チキンラーメン、どんぶりー♪」

 って、ついつい口ずさんでしまうこの頃。日本ではほとんど食べなかったインスタントラーメンも、ここケニアにいると無性に食べたくなる。カップラーメン・どんべえ・UFO・チキンラーメンなど。さて、この誰もが知ってるインスタントラーメンを作っている会社をみなさんはご存じか。そう、あの有名な「日清」(正式名:日清食品ホールディングス株式会社)である。

 この日、チキンラーメンで知られる日清から、うちのゲタスル更生院と向かいにあるカベテ更生院の子どもたちに無料でチキンラーメンを提供してもらえた。ここ日清は、創立50周年を記念して積極的に社会貢献活動をしている。ここケニアでも、貧困などから食事が十分に食べられない子どもたちに、学校給食として無料でチキンラーメンを配布しているのだ。

 もちろん、ここケニアで食べられるチキンラーメンなので、ケニアで作られる。ナイロビ郊外にあるジョモケニャッタ大学の一角に製造研究所を作り、そこで製造している。また日本からチキンラーメン仕様にデザインされたトラックを輸入しており、その中でお湯を沸かしたりできるため、水がないもしくは水が汚れているところに行っても調理することができるのだ。

 そんな日新がカベテ更生院に来て、チキンラーメンを作ってくれた。はじめに子どもたちはチキンラーメンの製造の過程とケニアでの活動のビデオ2本を見て、興味を持ち始める。しかしまだこれがどんな食べ物なのか理解していないようだ。そしてビデオが終わって、いよいよ試食。

 嬉しそうというより、不思議そうにチキンラーメンの入ったお椀をもらい席に着く。

 “Asante・・・” 「ありがとう・・・」

 といつもより小さい声でのお礼。きっとどんな味なのか全く想像がつかないのであろう。そして普段のように豪快には食べず、少しずつ味を確認するかのように食べ始める。うんともすんとも言わず黙々と食べる。子どもたちにとって人生はじめてのチキンラーメンはどんな味がしたんだろう・・・?

 と片付けのときに気づいたが、ほとんどの子が残さずすべて食べていた。この結果だけで満足な私。日ごろ、ほとんどウガリと豆とトウモロコシしか食べることのできない子どもたちにとって、貴重な体験だっただろう。昔、こんなチキンラーメンをお湯もかけず、バリバリ食べてた自分がちょっと恥ずかしくなった。ああ、生卵を入れてチキンラーメン食べてえなあ。

2009年12月7日月曜日

11月30日 我が家のような更生院


 久々の職場。久々の授業。久々の子どもたちとの会話に、久々の更生院の食事。最近は、更生院から少し離れて帰ってくるたび、我が家のような安心感を心に感じる。

 “ Nimerudi. Habari za siku nyingi?” 「ただいま、久し振り。」

 そういって同僚にあいさつ。同僚も笑顔で迎えてくれる。子どもたちも私の姿をみるなり、大歓声と拍手、そして真っすぐな笑顔で迎えてくれる。

 「ああ、家に帰ってきた。」

 そういう嬉しさでいっぱいになる。一人ひとりと握手を交わし、タンザニアでの思い出話をしたり、更生院の様子など聞いたりする。新しく来て知らない子どもたちも多くなっている。そんな子どもたちにスワヒリ語で話しかけて、びっくりさせる(東洋人がスワヒリ語を話すから)。そんな驚かすことも日課となっていて、当たり前の日常が心地よい。

 授業でも相変わらず、態度の悪い生徒に愛のげんこつ。授業を中断して、得意の雑談が始めて、子どもたちとコミュニケーションをとる。そんなこともなんだかこの日は新鮮だ。そんな子どもたちにこの日、折り紙の飛行機を折らせ、一緒に飛行機を飛ばす。遊びもこの子たちには大事な時間の一つ。

 残りの期間3ヶ月半はなるべくこの更生院にいようと思う。クリスマスも正月も。クリスマスに心ときめかせるような状況ではないし、正月といっても家におせちもなければ、雑煮もない。「おかえり」と言ってくれる妻の代わりに、台所に住みついた巨大クモと肌色のトカゲが迎えてくれる我が家。だったら、我が家的な更生院にずっといるのも悪くない。

 というわけで、そんなクリスマスと正月をここゲタスル更生院で送ります。そんなさびしそうな私に同情される方は、クリスマスカード又は年賀状を待っていますので送ってください。よろしくお願いします。

2009年12月6日日曜日

11月29日 ハートにホームラン!


 ケニア隊では、隊員が一つの配属先に集まって、スポーツなどのイベントをする企画がある。その名も

 「ハートに○○!」


 ここの「○○」の部分にいろいろな名称が入る。
 「ハートにシュート!」(サッカー)
 「ハートにホームラン!」(野球)
 「ハートにアタック!」(バレーボール)
 「ハートにポートボール!」(ポートボール)など

 そして今回は同じ青少年活動という職種でワムム更生院で活動する「新さん」の呼びかけのもと、ワムム更生院で野球大会(ハートにホームラン!)が行われた。朝早くからドミトリー初のマタツに乗り、ワムム更生院へ。ナイロビから約2時間半のところにあるワムム更生院は私の活動先ゲタスル更生院の子が3ヵ月生活したのちやってくる、国内6か所ある更生院の一つだ。なので、生徒のほとんどを知っている。そんな子どもたちの成長を見ることも今回の参加の目的の一つだ。

 そしてワムム更生院に到着。たくさんの子どもたちが歓迎をしてくれる。子どもたちも思わぬ来客になんだか嬉しそうだ。そんな温かい歓迎を受ける中、試合の準備開始。今回は「ワムム更生院生徒 VS JOCV(ボランティア)」というカードだ。新さんが教えてきた野球の集大成と言うべくして実現した、この試合。どちらも意地と意地とのぶつかり合いだ。キャッチボールやバッティング練習をして、いよいよプレーボール。

 初回、JOCVの攻撃で、子どもたちの守備のミスをついて幸先よく3点を先制。その裏JOCV先発の「じゅんや」が素晴らしい投球で、3者連続三振の快投。勢いに乗る。3回裏にもワムムがなんとか1点を返すも、4回表JOCVがすかさず、一点を追加。一進一退の攻防が進む。

 そして試合が動いたのは4回裏。交代したJOCVの投手をワムムがせめて一気に4点をとる。ここで逆転に成功。JOCVは歳のせいか、炎天下の状況に疲れがどんどんと出てくる。その次の会の裏もワムムが3点を追加。8対4と大きくリードする。

 最終回7回、この回JOCV最後の猛攻を見せるも1点を返すのが精いっぱい。そのまま振り切られて8対5でJOCVが負けてしまった。しかし子どもたちは満足そうな笑顔でいっぱいだった。ちなみに私は途中から6番キャッチャーで出場して、1打数0安打。平凡なショートフライに終わりました。小学校のときにソフトボールでキャッチャーをしていて、17年ぶりにかぶるマスク。ソフトボールとちがい、上から投げる早い速球に少々ビビりましたが、大きな怪我をすることなく、無事プレイできました。

 子どもたちの中には背が伸びていたり、太ったり、声変わりをしていたり、ヒゲが少し濃くなっていたり、その成長が見えてなんだか不思議な感じだった。卒業した子どもたちに再開する心境と少し似てるかな。そんな子どもたちに見送られてこの日のイベントは幕を閉じた。

2009年12月5日土曜日

タンザニア旅行記 ダル・エス・サラーム


 いよいよタンザニア旅行気も最終章を迎えました。最後の目的地はダル・エス・サラーム。ここでも同期との再会を心待ちにしてやってきました。ダル隊員のほっしー(自動車整備)とBi.のりこ(青少年活動)、そして寺田さん(理数科教師)と会うことができました。

 この日はタンザニアの同期と合流後、高級そうなイタリアンレストランへと向かいました。ピザやサラダ、魚のステーキ、ラザニア、そしてデザート。ほんとアフリカ隊員とは思えない食事ですよね。けど、これを毎日食べてるわけではないので、誤解しないでください。そしてやっぱりビールがうまいんです。この旅行中ほぼ毎日飲んでますが、旅行に来たときぐらい飲んでもいいですよね。一人で飲むビールより、やっぱり仲間と飲むビールってほんまにうまいんです。いやあ最高でした。きっとまた体重増えてんだろうなあ。

 次の日の朝、ホテル近くのティンガティンガ村に行く。このティンガティンガ村には動物の絵を中心に書く絵描きがいて、東アフリカ独特の絵を描いている。値段も安いものから高いものまでさまざまで、こういう絵に興味のある私はその一つひとつの絵に目を奪われた。やはりこれも画家の血なのかなあ。そして値段の安い絵を買う。ちょうど表札のような大きさのものがあり、名前も書いてくれるということでこの小さな絵を5枚ほど買いました。日本への素敵なお土産も買えて、次なる目的地へ。

 次は同期ほっしーの配属先、職業訓練学校VETAへと向かった。そこで自動車整備を教えているほっしーの案内のもと、さまざまな教室や施設を見せてもらう。あまりの大きさにびっくりしたぐらいだ。そしてここで、9日間一緒にいたザンビア隊のともちゃんとサブとお別れ。次回は日本で会おうという約束をし、二人は空港へと向かった。

 そして私はもう一人のダル隊員Bi.のりこの活動先を見に、近くの養護学校へと行った。そこで振付付きの歌を教えたり、ハーモニカを教えたり、なんとも楽しそうに活動をしていた。それを受けている子どもたちも、本当にうれしそうに笑っていた。私も一曲、スワヒリ語版の「大きな栗の木の下で」を子どもたちに教えて、一緒に楽しく歌えた。

 とふと涙ぐんだ。その子たちのあどけない笑顔に。それを作り出しているBi.のりこの活動に。最近の私は更生院の子どもたちに対し、叱ってばっかりでこんな笑顔を作り出すことをすっかり忘れていた。自分自身も笑顔がないことを気付いていたのに。私も更生院の子どもも、もう一度ここの子どもたちみたく、心から笑うってことをしていかなきゃ。と思った。

 そんなタンザニア旅行も、死ぬ思いあり、笑いあり、涙ありの最高の思い出となった。また感じた協力隊の仲間との絆、改めて感じる自分の活動への想いなど、考える場面の多い旅行にもなってありがたかった。充電もしっかりできたし、また更生院に帰って新たな気持ちで子どもたちと接しよう。

2009年12月3日木曜日

タンザニア旅行記 ザンジバル

  ザンジバルといったら、やはり世界遺産のストーンタウンと透明できれいな海で有名ですよね。タンザニアといったら外せない観光地の一つがこのザンジバル。というわけで、やってきましたザンジバル。ここでも同期の隊員がたくさんいるんです。森さん(体育)、Bi.ちえこ(養護)、そしてBi.さやか(農業土木)の3人。

 まずはこの日(23日・七日目)到着してからすぐにホテルに行き、重い荷物を置く。そして近くのローカルフードの店で昼食(ピラウとタコの煮物)をとり、そしてストーンタウン見学に出かける。イスラム建築とキリスト建築が点在する、このストーンタウンは独特な雰囲気をかもしだしている。市場の熱気やあちらこちらで見られる屋台の数々。それぞれが見たこともない光景で、その状況の中にいることが新鮮だった。

 オールドアラブ砦に始まり、驚嘆の家、市場や魚の競りを見学し、道端で売っているコーヒーで一休み。とても小さなコップで飲むコーヒーを一気に飲まず、少しずつ大切に飲み、ストーンタウン独特の雰囲気を楽しむ。こういった地元の人とのひとときもまた嬉しい。夕方になり、ザンジバル同期3人と一緒に驚嘆の家の屋台でシーフードを満喫する。この串焼きしたタコやイカ、エビや魚などと一緒に飲むビールは格別だろうが、アルコールは禁止。イスラム教徒が多いこのザンジバルでは、公にお酒を飲むことはできない。公園のど真ん中でビールなんてもってのほかだ。けど、久々に食べるシーフードに舌鼓。外で食べる食事はうまいんです。予定していた2時間はあっという間に過ぎ、ホテルに帰る。

 次の日、ホテルの横にある大聖堂を見学し、奴隷市場となっていた場所をめぐる。ここザンジバルは奴隷貿易の中心という負の歴史も持っており、ザンジバルに来たら見逃せないところだと思う。そしてタクシーにゆられて次なる目的地へ。

 次の目的地はザンジバル東にあるパジェという村(町?)。ここにはきれいなビーチがたくさんあり、その中でも日本人女性が経営しているホテル、パラダイス・ビーチ・バンガローズにお邪魔した。経営している三浦さんは気さくな方で、すごく歓迎してくれた。そこに広がる透明な海と青い空、そして白い砂浜。あまりのきれいさに、すぐに服を脱いで、砂浜を走り始める。足の筋肉痛も忘れるほど、そのきれいさに興奮して笑顔がこぼれる。

「波はジェットコースター♪」

 なんて、キンキの歌を歌いながら他のお客さんのいない貸切ビーチを走り抜ける。いやあ本当に最高でした。そしてお待ちかね昼食の時間。こんな素敵なビーチでお寿司と刺身盛り合わせ、キャベツの味噌汁、そしておにぎりをいただきました。それとビールがまたうまいんです。反則です、日本食とビールときれいな海。ってあまり書きすぎると、妻に連れて行けと言われそうなので、ここまでにしておきます・・・。

 そしてパジェの滞在時間もあっという間に過ぎ、タクシーで空港へ。ここザンジバルはもう一度来たいと思うほど、きれいなステキな町でした。こんな場所で協力隊って、かなりうらやましい。そして一行は次なる目的地へ向かいます。

2009年12月2日水曜日

タンザニア旅行記 モシの町


 キリマンジャロを下山し、やってきました麓の町モシ。このモシの警察学校で空手を教えている同期隊員Bwana金藤。この日はキリマンジャロ登山お疲れさまということで、一緒に飲みました。ケニアではあまり見かけない屋台でタンザニア風焼き鳥、砂肝、骨付き肉、そしてザンジバルピザという餃子風お好み焼きをたくさん買う。この時点でお腹はペコペコ。出来たてをそのままほおばりたかったが、それは後のお楽しみとしてビールも買い、夜の飲み会のためのごちそうをそろえていく。

 夕方頃、Bwana金藤の配属先を見学する。その警察学校から見えるキリマンジャロもまた素晴らしく、夕日に染まる山がすごく感動的だった。野外にある空手場や室内練習場、また食堂や生徒たちの住むドミトリーまで見せてもらった。食道とドミトリーは私の活動先の更生院とよく似ていて、せまい空間に二段ベッドが隙間なく置かれてある状況はまったく同じであった。

 さて見学が終わり、家に戻ってのんびり過ごす。洗濯をしたり、シャワーを浴びたり。そして待ちに待った飲み会。2年ぶりに食べる焼き鳥と砂肝に大興奮。なんで焼き鳥とビールってこんなに合う
んだろう。またザンジバルピザもおいしくて、せっかく登山で落とした体重もすぐにリバウンドしました。しかし疲れた体にビールは効きます。あっという間に顔は真っ赤、目は充血、頭はフラフラになる。気分よく語りあったり、一緒にパソコンでお笑い番組を見たりと楽しい時間を過ごしました。

 そして午前2時過ぎ就寝。次の日、空港からザンジバルへ出発。飛行機の中でも爆睡して、次なる目的地ザンジバルへと向かった。

2009年12月1日火曜日

タンザニア旅行記 キリマンジャロ登山②


きっと三蔵法師様もこんな道を通ったことがあるんだろうなあと感じ始めた20日・四日目、ほとんど植物がなくなり土と岩しかない道をすすんでいく。植物がないということはもちろん酸素が薄い・・・。そんな酸素が薄い状況の中、なんとか酸素をとろうと水をこまめにとっていく。水の化学式は「H2O」、つまり酸素を含んでいるので水から酸素を取り入れようと飲む。そして深呼吸を多くして、なんとか酸素の確保に努める。

 それにしても景色は最高だ。キリマンジャロの山がすごく近くに見え、それをずっと眺めているだけでも、感動的だ。険しい山の雰囲気と雪をかぶって少し柔らかな雰囲気と、なかなか言葉では言い表せない。どんどん冷たくなる風に体力を奪われながら、その景色を見ながら一歩ずつ進んでいく。そして最後の標高4700のキボハットに到着。

 この時点で、5人のメンバーのうち、私を含め4人が高山病や体力低下で苦しむ。ついてすぐに寝込んでしまった新井の親父、体調が急に悪くなったサブ、俺も高山病の兆候に苦しみながら、少しでも高度順応しようと休むことなく散歩を始める。そして目の前に広がる大きなキリマンジャロを見上げる。

 「でけえな・・・」

 そう思い武者ぶるいを感じる。こんなとんでもない山に挑戦しようとしてるんだ・・・と弱い心が顔を出し始める。それぐらい、とんでもない山なんです、このキリマンジャロ。 この日、食欲もほとんどなくスープを無理やり流し込み、19時過ぎに就寝。真夜中のファイナルアタックのため体力を回復しようとするが、あまりの寒さと高山病で一睡もできなかった。

 そしてその日の23時、準備を始める。真夜中0時から始まるファイナルアタックのための準備にとりかかる。防寒のために何枚も服やソックスを重ね着して、背中とお腹にはホッカイロ、準備万端でいよいよ最後の登山がスタートした。

 高山病対策のため、本当にゆっくりゆっくり登っていく。今までにないくらい急な山道に足をとられながら、進んでいく。しかし5000メートルを超えてから異変に気づく。呼吸が急に苦しくなり、頭痛と吐き気に襲われる。そして意識もはっきりしてるかどうかもわからないような状況になる。ただ一気に弱い気持ちが心の中いっぱいになる・・・。 その朦朧とする意識の中で、唯一覚えていること、それは何度も妻に言われた言葉。

 「絶対、無理はしないで」

 その言葉と俺の登りたいという気持ちが心の中で闘っているのがわかるのだが、5200メートル付近で、一つの決心をした。

 「新井さん、俺降ります。」

 と前へ行く新井さんに告げた。私の出した結果、それは下山することだった。ギルマンズポイントから見える最高の日の出、約20年後にはなくなるかもしれない最高峰ウフルピークに広がる氷河、いやそれよりも人生の中で一番の達成感、そのすべてを投げ出してたどり着いた結論、それが下山だった。

 悔しさをかみ殺して、サブガイドとゆっくり下山し、キボハットへ戻った。そして、無理をした体をいたわるかのように、熟睡。トイレに行くこともコンタクトをはずすこともできず、深い眠りについた。

 朝になり、登頂した二人が最高峰ウフルピークから戻ってきた。二人の最高の笑顔に正直素直に喜ぶことはできなかったが、なんとか笑顔で迎える。この時点ではまだまだ、かなりの悔しさが残っていた。結局メンバー5人中2人が登頂に成功。この数字だけでもキリマンジャロ登山が困難だってことがわかる。

 その日の朝(21日・五日目)、そのまま下山が始まり、ホロンボハットまで降りる。そこで宿泊するのだが、ここで私の高山病が一気にヒートアップ。ほとんどごはんを食べることもできず、ただただ横になって休むだけという状況に陥る。この日が一番つらかったな・・・。 次の日の朝(22日・六日目)、雲海の中からゆっくりと朝日が顔を出す。その優しい朝日の光がすごくすがすがしく、うれしさでいっぱいになった。そしてゲートまで下山。朝はもうガタガタ、筋肉痛で普通に歩くこともできなかったけど、それでも気持ちはかなり満足感でいっぱいで、自然と笑顔がこぼれていた。そんなキリマンジャロ登山だが、もう一回チャレンジしたいかというと、もう絶対挑戦したくない。それぐらいつらく、大変だった。次は地元の鷲羽山か由加山に挑戦しようと思うこのごろ。そんなキリマンジャロ登山、登頂はできなかったけど、素晴らしい体験ができたと胸をはりたい。