突然、不思議な感覚になった。それはオフィスの横の掲示物を眺めていたとき。
私が帰るときには、自分の作った手作りの作品や掲示物、すべてを処分して帰る予定だ。というのも、ここゲタスル更生院には後任の隊員がやってくる。その人に前任の私がやってきたことを引き継いでもらいたいという気持ちはさらさらない。むしろ何もない状態で、自分の色を出して活動してほしいと思うからだ。
そのためすべての作品や掲示物などはあと1カ月半で処分することにしている。この感覚はちょうど年度末の日本の中学校の学級を持っていたときと似ている。修了式後、卒業式後、生徒がいなくなった教室で一人掲示物や作品をとっていく、そんな感覚に似た感じだ。
日本ではそろそろ年度末。終わりが見えてくる時期である。私の活動も終わりが見えてきて、ここケニアでの教育活動も終わりを迎えようとしている。今まで作ってきたものも、育てたものも形としてではなく、この約2年間で接してきた子どもたちの内面に残ってほしいと感じている。それが自分がこのゲタスル更生院にいた証になると思う。
当たり前のことができることって、実はすごく温かくて、かけがえのないものだと思う。そばに子どもがいる、一緒に話ができる、一緒に笑える、ケニアだからとか協力隊だとか関係ない。日本にいる人だって、世界中にいる人だって、実は当たり前に生活できることの幸せを感じているはずだ。その当たり前の生活がもう少しでできなくなる、切ない気持ちと実感がないのとよくわからない感じだ。
初めて自分が3年間受け持った生徒が卒業する前日の給食時間のことを思い出す。1年生のときにまったく準備できなかった生徒が、てきぱきと給食の準備をする。いつも一緒に食べていた給食、それも明日から食べることができない。そう思うと涙がこぼれた。
「先生、卒業式まで涙はとっておいてよ。」
そう言って生徒が笑って、なぐさめてくれたのを思い出した。その時から当たり前のこと、当たり前の日常が実は一番かけがえのないものだと考え始めた。再び同じような不思議な感覚を感じたこの日。その感覚が日に日に大きくなっていくんだろうなあと思う。
残り48日。
2 件のコメント:
こんにちはくろちゃん
また鳥肌たちました。
そうねそうね。当たり前だったことが、おわることって寂しいんだね。
別れ際に泣かなくなった最近。会いたい人とはまた会えるから。でもさ、会えるから良いのではなくで、そこの日常はそこで終わるから、なけるんだね。って思ったよ。
あかね
会える・会えないは別として、この日常が終わるだけで、なんかさびしく感じるわ。
今回は泣かずにお別れをしたいんだけどなあ。ケニアではあまり男性は涙を見せないということなので。
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