2010年3月21日日曜日

3月20日 Kwaheri Party


 隊員主催のKwaheri Party(送別会)。ついにこの日が来てしまった。帰国前日の20日。夕方から送別会開始。今回の会を主催するのは、一緒にケニアに来た20年度1次隊の同期たち。一緒に来たのに、先に帰る隊員として送られる、うれしさよりもむしろ寂しさのほうが多かった。一生懸命準備する同期たちを横目に、心に埋まりそうになる悲しみをごまかすのに必死だった。

 たくさんの手作りのスライドショー、ムービー、そのそれぞれにたくさんのみんな想いが込められている。そして最後の挨拶。

 「本当に一緒に来た同期たちと、一緒に帰りたかった。」

 これが本音だった。現職の学校の教員ということで4月の新学期に間に合うように帰国する。一緒に来た同期たちより3カ月早く帰国するのだ。これが本当に悲しかった。見慣れた顔、訓練から一緒に苦しい時期を過ごした仲間、病気になったときお粥を作ってくれたり水や果物を買ってくれたりした仲間、一緒にサファリに行った仲間、たくさんの思い出ができた。

 「くろちゃん」

 そう言って、楽しく会話していた家族のような仲間と明日から話もできなくなる。2年間一緒に過ごした仲間との別れ。何よりも自分にとってつらいことだった。身内ということもあり、涙が我慢できなかった。次から出てくる涙を、お酒と一緒に飲み、みんなと最後の別れを惜しんだ。

 ありがとう。同期の仲間がいなかったら俺は1年9カ月がんばれてなかったと思う。大事な仲間であり、一生ものの親友。また日本での再会を夢見て、明日は笑って別れることにする。この協力隊で得た最高の宝物、それは仲間。これからもずっと仲間。ありがとう。

3月17日 子供たちとの別れ


 この日は更生院と任地カベテとのお別れの日。朝から部屋の片づけをして、隊員ドミトリーに行くために荷物をまとめる。眠い目をこすりながら、最後の挨拶のために更生院に向かう。子どもたちはいつもの朝の掃除、朝食の準備に忙しくしている。そんな毎日の光景がこの日から見ることができない、と思うと胸が痛むように苦しくなる。1年9カ月の間日本に帰らず、ずっとここゲタスル更生院で活動した。土日もクリスマスも正月も。
 
 “ Nitaondoka leo. Si uwongo.” 「今日、私は出発します。嘘じゃないよ。」
 “ Ahaaaaa.” 「あああ」


 と子どもたちは悲しそうに返事をする。ずっと授業を見てきたし、空いている時間には一人ひとりとキャッチボールをした。そんな私は子どもたちにとってどんな存在だったのだろう?
 
 “ Mwalimu, ninakumiss sana.” 「先生、いなくなると寂しいよ。」

 そう言って、何人もの子どもたちが言ってくれた。今にも溢れそうになる涙をぐっとこらえ、子どもたち一人ひとりにこう伝える。

 “ Asante. Afia nzuri, halafu usome vizuri. Maisha yako itakuwa poa.”
「ありがとう。健康に気をつけて、しっかり勉強せいな。きっとお前の将来は良くなる。」

 そしてゲタスル更生院の前で立ち止まる。初めて来たときからこの日まで、いいことも悪いこともたくさんあった職場。いろんな思い出が頭の中で思い浮かぶ。必死に涙をこらえ、大きく一礼。そして後ろを振り向いた瞬間、我慢していた涙が一気に噴き出した。それだけ中身の濃い1年9カ月で、活動を続けてきた更生院。自分にもたくさんの種がゲタスル更生院で与えられた。今後日本に帰って、この種を大事に育てようと思う。花を咲かせるのも枯らすのも自分次第。俺も子どもたちに負けないよう、自分の種を育てる。

 そして毎日通っていたカベテの小さな小さな村。ほとんど毎日行っていた喫茶店、その喫茶店で働いていた大好きな子どもたち、豚屋のお兄ちゃん、靴直しのやらしいおじさん、野菜をキオスクで売っているおばちゃん、肉屋の若い兄ちゃん、その人すべてに最後のあいさつ。絶対忘れない、このカベテの村も、そこにいる人たちも。俺の1年9カ月を支えてくれたたくさんケニアの人たち、本当にありがとう。

3月11,12日 送別会



 終わりが近づいてきた。11日には任地カベテの隊員メンバーが集まっての送別会。そして12日にはゲタスル更生院での送別会。自分のために送別会を開いてくれるのは、なんだか不思議な気分だ。まさか自分が送り出させれるほうになるなんて。いつも送り出すほうだったのに。

 カベテの送別会では我が家に、シンヤ・キョウコさん・片山君が集合して、いろんな話をしました。病気のときも活動に悩んだ時も、いつも励ましてくれたメンバーだ。生意気な弟のような存在のシンヤは、いつのまにか大事な親友になっていた。キョウコさんはいつも笑顔で話しかけてくれ、こちらのたくさんの話を優しく受け止めてくれた。片山君もいつも温かく話を聞いてくれた。そんな大事な仲間との別れが近づいていた。

そしてゲタスル更生院での送別会。たくさんの先生が集まり、私のために送別会が開かれた。たくさんの料理とソーダを飲みながら語る。今までの笑い話や思い出など。2時間という時間があっという間に流れた。そしてケニア人の先生たちが一貫して最後のコメントとして言ってくれたこと。

 “ Upunguze hasira.” 「怒りを少なくすること」
 “ Tuko Pamoja.” 「私たちはずっと一緒です。」


 この2年間の私は、ことあるごとに生徒や同僚と衝突した。そのたびにいつもケニア人の先生たちに教えてもらったこと。それは人間はみんなまちがいがあるということ。そしてそれをゆっくり見ていこうとすること、私がケニア人に何か教えたのでなく、ケニア人から教えてもらったことのほうが多い。

 そしてみんなが言ってくれたTuko Pamoja。ケンがどこにいっても私たちはつながっているということだ。その言葉がすごく嬉しかった。自分を赴任当初から同僚として温かく迎えてくれた、痩せてくるとごはんをいつも大盛りにしてくれた、悩んだ時はいつも温かく話を聞いてくれた、そんな同僚が大好きだ。
 
「衝突したこともケンカしたことも、怒ったこともその負の感情のすべてをケニアに置いて帰ってね」

と、あるマダムが言ってくれた。話を聞いているうちいろんなことを思い出して、自然と涙が流れていた。同僚の前では泣かないと思っていたのに、涙がこぼれた。このゲタスルでの思い出は、これから一生忘れることはないだろう。この2年間で800人以上の更生院の子どもに授業をはじめ、将来の夢を持つこと、Asanteの大切さなど伝えてきた。その小さな芽たちが、いつか将来大輪の花を咲かせますように。そう日本から祈る。

2010年3月11日木曜日

3月10日 とうもろこしの収穫

 とうもろこしの収穫の時期を迎えた。ここゲタスル更生院で食べる最後のマヒンディ(白いとうもろこし)。お腹がすいてたら食べてた固い焼きトウモロコシのおかげで、今ではずいぶんと顎まわりの筋肉がつき、少し顔がごつくなった。

 この日は配属長から子どもたちへのプレゼントとして、一人1本のトウモロコシが配られた。どさくさにまぎれて、2本も3本もとうもろこしをとっていこうとする小僧ども。そんなやつらには、いつもの愛のげんこつ。いったいこの2年間で何人の小僧を殴ってきたのだろう・・・。考えただけでも恐ろしい。日本だったらまちがいなく懲戒免職だな。気をつけなきゃ、日本では。

 さて夕方のスポーツの時間は焼きトウモロコシの時間になる。それぞれの場所でたき火をして、トウモロコシをやく。食べざかりの小僧たちは遊ぶより食べることのほうが好きみたいである。私がいつものようにキャッチボールをしようとゴムボールを持ってきても、それに見向きもせず、トウモロコシを焼く。「あのー、もう俺が更生院にいるのも5日間なんですけど・・・。」そう思うが、誰もキャッチボールをしてくれない。少しさびしい。

 そうするとある男の子が、大きなバッタを捕まえて見せてくれた。大きくて立派なバッタだ。俺も小さい頃はショウリョウバッタやイナゴを捕まえては、虫かごに入れてたっけ。

 “ Mwalimu, hii ni tamu sana. Kama kuku.”
「先生、これすごくおいしいんだよ。鶏肉みたいで。」


 ・・・!?た、食べるんですか!?それもどう考えても鶏肉じゃないし。そんな私の考えをよそに、小僧たちはたき火にバッタを投げ入れる。何人もの小僧たちがおいしそうに焼きバッタを見ている。そして少し焦げたところで出来上がり。ケニアの小僧たちにとっては、なんでも食べ物になるんだな。キリンもインパラも、ウサギも食べてしまう彼らだからなあ。そんな私もここケニアでダチョウやワニを食べていますが・・・。

 ところでずっとこの2年間愛用していたデジカメが壊れてしまいました。不注意で落としてしまったのですが。残り11日なのに。まあ気にしない気にしない。ここらへんのいい加減さは、いい意味でケニア人化してきてると思う。

 残り11日。

2010年3月9日火曜日

3月8日 紙芝居「MOMOTARO」


 いよいよゲタスル更生院で過ごす最後の1週間が始まった。とくになんの心境の変化もなく、この次の日曜日に帰国するという実感もなく、また新たな1週間が始まったなあという感覚だ。

 今週はテストが終了したこともあり授業がない。そのため教室に入って、自由に活動することができる。そこで今回は紙芝居「MOMOTARO」を子どもたちに見せることにした。

 この紙芝居「MOMOTARO」は先月末、地元倉敷市の国際交流協会が企画して作成されたもので、3歳から60歳までの倉敷市民30名がその一枚一枚の絵に色を塗ってくれたものである。後ろには英語とスワヒリ語の両方の文章があり、ゲタスル更生院の子どもたちでも楽しく理解できるものとなっていた。
 
 “ Once upon a time, ・・・” 「昔々あるところに、・・・」

 と初めに英語で私が紙芝居を披露。初めて見る紙芝居に子どもたちの視線は釘づけになる。日ごろはおしゃべりをする小憎たちもまったく口をひらかず、真剣に聞き入る。日本の昔話にかなり興味をもっているようだ。次にスワヒリ語バージョンで話をする。英語が理解できない小憎もいるので、スワヒリ語の文章があるのはありがたい。

 その後、何人かの生徒に紙芝居を読ませる。この紙芝居って、けっこう難しい。台詞の場面では、その感情を入れたり、声を変えたりして読まないと雰囲気が出てこないし、下を見すぎて読んでしまうと声が通らないし。紙芝居を上手に読むためには、かなりの技術が必要である。それでも小憎たちは初めての紙芝居を楽しんでいた。

 この紙芝居はゲタスル更生院で披露した後、カベテ更生院、ナイロビ孤児院にも持っていく予定だ。なるべく多くのケニアの子どもたちに日本の文化・紙芝居を体験させ、岡山県の伝統的な昔話「ももたろう」を伝えていけたらなあと思う。 ところでケニアでは、「マンゴたろう」のほうがしっくりくるのかなあ・・・。お供の動物はライオンとサイとゾウ。むちゃくちゃ強そうだ。きび団子のかわりにバナナをあげるのかなあ。と勝手に想像してしまう私です。

残り13日。

2010年3月8日月曜日

3月3日 実り始めた "Asante"


 私がもう一つ、2年前からゲタスルの子どもたちに巻いてきた種。
 それは “Asante”「ありがとう」という言葉の種だ。

 ここゲタスルで活動をした当初、あることに衝撃を受けた。それは、子どもたちが “Asante”や “Pole”「ごめん」という当たり前の言葉が言えないということだった。感謝の気持ちも、謝罪の気持ちも表わさない子どもたち。いや、素直にそのような想いを言葉に出していうことは、子どもたちのプライドが許さなかったのだろう。そこからほぼ毎日のように子どもたちに言い続けた言葉、それが “Asante”だった。

 毎日の何気ない生活の中で、お客さんが来て一緒に行うイベントの中で、カウンセリングの中で、いろいろな場面で一貫して言い続けた言葉だ。素直に感謝の気持ちを表に出せること、何も取り柄のない私にとって、唯一子どもたちにできたことは、この “Asante”と言い続けることだったのだろう。

 そしてその種がまっすぐ育ってきたことを今になって実感する。少しずつ前いた子どもたちから今の子どもたちへと伝えられた言葉。たった一言の言葉。それが今はここゲタスル更生院に広がっている。

 図書館での読書の後や授業の後、 “Asante”
 運動場の時間、一緒にキャッチボールをした後、 “Asante”
 ゲタスル更生院に来たお客さんから何かもらったときに、 “Asante”
 友達同士で助けあったとき、 “Asante”

 子どもたちの中に自然に、素直に感謝の気持ちを表すことが広がり始めた。そのことが一番の私の活動の成果。3カ月間しか滞在しないゲタスル更生院で、子どもたちに身につけてほしいことが、今芽を出し始めた。何気ないことだが、当たり前のことだが、子どもたちに一番大切な何かを残せたのではないかと強く思う。最後、2週間後、俺も子どもたちに伝えよう。心の底から “Asante”。

2010年3月7日日曜日

3月2日 表れはじめた変化

 いつもの風景。いつもの子どもたちとのやりとり。そのいつも通りのことが愛しく感じる。久しぶりにゲタスルに来て、そう感じたこの日。同僚との何気ない会話、更生院の子どもたちとの他愛無いやりとり。マンネリ化して毎日が、少し外に出ることで新鮮に思え、またその時間を大切にできる。この新鮮な感じが好きだ。

 次の日から、最後の大仕事、子どもたちの他の更生院への移動前のテストが始まる。今いる子どもたちが私がここの更生院で受け持つ最後の子どもたちになる。今思えば、本当にこの2年間苦労した。愛情を持って子どもたちに接することなんて、正直できなかったのではないか・・・。ほぼ毎日、子どものまちがいに対し叱り殴っていた。愛情よりも憎しみのほうが多かったのでは・・・。そんな苦しい2年間だった。

 コミュニケーション能力の不足、子どもたちの予想を超える悪さ、ケニアの文化や習慣のちがい、すべてが今思うと私に重くのしかかった。しかしだからこそ、今の自分がいるのではないかと感じる時もある。

 さてゲタスルに帰ってきて、ある変化に気付いた。それは子どもたちの自主性

 “Mwalimu, nataka kusoma kitabu.” 「先生、本を読みたい。」

 そう言って、子どもたちが近寄ってくる。図書館のカギを開けてやると、そこからはもう自分たちですべてができる。何も言われなくても、ある子どもはカウンターに座り、自主的に図書館の仕事をする。他の子どもたちは自分の読みたい本を見つけては、自主的に本を読み始める。あるものはノートと鉛筆を借りに来て、そこから自主的に自習を始める。すべて私から言われたことでなく、自分たちで自主的にしていることだ。今では私に言われなくても、自然と図書館に集まるようになり、自習をしたり本を読んだりするようになった。

 2年前から何度もまいてきた自主性という種。育ってきたと思ったら、何度も何度も裏切られ枯れていったこともあった。しかし、ようやく少しずつ真っ直ぐに芽が出てきたのだ。まだまだ安定してない成長過程の芽だけど、いつかしっかり地面に根をおろし、素敵な花が咲くよう願いたい。子どもたちの未来が、自分たちの手で輝くものになるように。

2010年3月5日金曜日

ケニア西部旅行記


前日からの続きで、ケニア西部の旅行をざっと紹介します。

2月22日 エルドレット
 エルドレットに到着。ケニア隊員哲平君の任地にお邪魔する。
 哲平君が生活しているLewa Children’s Home(レワ孤児院)を案内してもらう。
 夕食にスパゲティミートソースをごちそうになる。
 経営している牧場で作ったmaziwa lala(飲むヨーグルト)をごちそうになる。
 この日は早めに就寝。

2月23日 エルドレット
 午前中、哲平君の活動先の学校に行って、授業を見学する。
 一緒に授業の体育に参加し、体を動かす。
 太陽のまわりに丸い虹が出る。人生で初めてそんな虹を見る。
 牛とたわむれる孤児院の子どもたちと接する。
 牧場やチーズ工場などを見学。
 エルドレットのタウン散策。ホテルのレストランで、昼からビール。
 晩ごはんとしての日本食をスタッフにごちそうするため、料理をする。
 夜まで語らう。そして就寝。

2月24日 エルドレット~カカメガ~キスム
 朝、チーズトーストを食べる。とろけるほどうまい。そしてマタツでカカメガに向かう。
 カカメガに到着。カカメガ更生院、シクサ少年院を訪れる。
 更生院では、子どもたちから大歓迎を受け、一緒にギゼリを食べる。
 少年院では、院長からこれから2年間少年院ではたらかないかとスカウトされる。
 キスムに到着後、マタツステージでストリートチルドレンの多さに驚く。
 人生で初めて、ケニア人にペットボトルを投げつけられる。(怒)
 ケニア隊員リーダーこと篠田くん(新潟大後輩)の家にお邪魔する。
 スパゲティミートソースをごちそうになり、語りながら知らぬ間に寝てしまう。

2月25日 キスム~ケリチョ
 初めにキスム博物館を見学。その後マタツでケリチョに向かう。
 ケリチョに到着後、ホテルの部屋を確保し、ケリチョ更生院へと向かう。
 ケリチョ更生院でも大歓迎を受ける。子どもたちと語らう。
 夕方、小腹がすいたので焼きトウモロコシを購入。喫茶店に入り、チャイを飲む。
 夕食時、レストランに入り、ウガリとチキン入りケニアスープを食す。
 ホテルに帰り、即就寝。

2月26日 ケリチョ~ナイロビ
 お茶畑として有名なケリチョをあとにし、ナイロビに帰る。
 4時間、無性にトイレに行きたくなり、お腹も痛くなる。
 終点場所まで我慢できず、途中のダウンタウン(治安悪)で下車。
 古びた車修理工場に入り、トイレを借りる。間一髪セーフ。
 徒歩で大きな荷物を背負ってタウンの中心部に向かう。けっこう危険知らず・・・。
 そしてタウンに無事到着。

 というような1週間の旅行だった。ウガンダだけでなくケニア西部も満喫できた。日本に帰ってから東アフリカのことを伝えたいと思うので、多くのことを知っておくのは大事なことだと思っている。おそらく一人旅はこれで最後だろう。

2010年3月4日木曜日

ウガンダ旅行記


2月19日 ケニア~ウガンダ
 ケニア~ウガンダ・エンテベ空港到着。
 JICA事務所に行き、ウガンダ隊員のコミュニティ先のクラフトやビーズ細工を買う。
 そこで同期隊員タロー君(建設機械)と合流。タロー君の任地ジンジャへ向かう。
 途中、売り子が持っている肉の串焼きを買う。
 ジンジャに着き、人生初の自転車タクシーに乗って、ナイル川源流を見に行く。
 帰り、人生初のバイクタクシーに乗る。けっこう怖い。
 ジンジャの町に帰り、ナイルスペシャルというビールと肉の串焼きで乾杯。
 他のウガンダ隊員とインド料理を食べて、飲んで語る。
 夜中もジンジャのタウンを歩く。慣れていないせいか、ドキドキする。

2月20日 ジンジャ~ナムトゥンバ~シピ
 朝からあいにくの雨。タロー君、まったく外出する気にならずダラダラ。
 小雨になり、ようやく同期隊員桐ちゃんがいるナムトゥンバへ移動。肉の串焼きを買う。
 ナムトゥンバ到着。バイクタクシーで桐ちゃん(村落開発)の活動するコミュニティへ。
 石鹸作りを見学。人生初となるジャックフルーツに挑戦。けっこううまい。
 コミュニティ散策。井戸を見たり、JICA笑顔のプロジェクトで建設中の学校を見学。
 ウガンダのローカル料理をごちそうになる。そして大都市ムバレに向かう。
 ムバレからシピへ。人生初の乗り合いぎゅうぎゅうタクシーに乗る。
 5人乗りの乗用車に大人7人(前に3人、後ろに4人)乗る。
 私は後ろに座ったが、一緒に乗ったウガンダ人のママが巨漢のため、つぶれそうになる。
 シピに到着。シピリバーロッジに宿泊。そこで同期隊員ゆっきーと合流。
 素敵な夕食のあと、遅くまで飲みながら語る。恋愛ネタ中心。

2月21日 シピ~カプチョルワ (おふくろの誕生日)
 滝を見ながら、おしゃれな朝食をいただく。
 お腹いっぱいになり、ウガンダ隊寝始める。
 タロー君が任地へと帰る。3人はシピ滝散策ツアーに出かける。
 思っていたよりもシピ滝が大きく、立派なため感動する。シピ空中ブランコを体験。
 滝をロープで下るアクティビティをしてみないかといわれ、ビビる。(結局してない)
 そして人生2回目となるヒッチハイクでカプチョルワへ移動。
 標高1800メートルを超えるカプチョルワの町に到着。景色最高。
 水運びを手伝う。ウガンダの赤ちゃんに怖がられ、号泣される。
 人生初のロレックス(ロールエッグス→卵が中に入ったチャパティ)を食べる。
 ゆっきー宅で日本食をごちそうになる。早めの就寝。

2月22日 カプチョルワ~ムバレ~マラバ~エルドレット
 午前中ゆっきー(薬剤師)活動先の病院訪問。
 乗り合いタクシーでムバレへ。そしてマタツでトロロ経由でケニアとの国境へ。
 ケニアとの国境マラバで、ウガンダ出国審査のスタンプを押してもらう。
 ケニア側にはいり、ケニア入国審査でスタンプを押してもらう。
 マタツでエルドレットへ。あいにくの雨。

 というような、流れでウガンダを旅行してきました。明日はケニア西部の旅行をざっと紹介します。

2010年3月3日水曜日

2月23日 2回目の結婚記念日

 この日は2回目の結婚記念日。それを記念して、今日は私をずっと日本で支えてくれた妻の名言集を紹介します。

★第1位★
「雑誌の付録についてた名づけの本によると、アンケート結果、
 ☆世界で活躍しそうな名前☆
 ☆1位☆ ケン
 ☆2位☆ イチロー

 だって。

 合わせて、ケンイチロー☆

 すごいね。」

★第2位★
 「すべてのことに正しい選択できる人はいないから大丈夫だよ。失敗や反省をしながら進んでいくんだ  から。

 ケニャイチローがケニアに行ってどれくらい“ありがとう”って言葉を言って、言ってもらったかな。それだけでケニアに行ってる意味はあると思うよ。大丈夫。」


★第3位★
 「いつでも帰ってきていいよ。今日でも明日でも、秋でも、冬でも、春でも。
  いつでもケニャイチローは帰るところがあるよ。
  いつでも笑顔で待ってるよ。」

2010年3月2日火曜日

2月16日 My 30th birthday


この街を出ていく事に 決めたのは いつか 君と
話した夢の 続きが今も 捨てきれないから

何度も耳をふさいでは ごまかしてばかりいたよ
だけど今度はちょっと違うんだ 昨日の僕とは

こっそり出てゆくよ だけど負け犬じゃない もうキャンセルもできない

さようなら 会えなくなるけど さみしくなんかないよ
そのうちきっと 大きな声で 笑える日が来るから
動き出した僕の夢 高い山越えて 星になれたらいいな

何かにつまづいたときは 空に手をかざしてみよう
この風邪はきっと どこかで君とつながってるから

呼んでる声がする だけど帰りたくない 笑われるのにも慣れた

長く助走をとったほうが より遠くに飛べるって聞いた
そのうちきっと 大きな声で 笑える日が来るはず
動き出した僕の夢 深い谷越えて 虹になれたらいいな

さようなら 会えなくなるけど さみしくなんかないよ
そのうちきっと 大きな声で 笑える日が来るから
動き出した僕の夢 高い山越えて 星になれたら いいな
                     (『星になれたら』Mr.children)



もうすぐ大きな声で笑える日が来る。 残り20日。

ケニア旅行記 モンバサ②

次に訪れたのは同期のまっきーが配属されている養護学校。隊員の中でも同じ現職教員の仲間として、お互い刺激しあった仲である。まっきーの配属先見学をするのを、すごく楽しみにしていた。

 授業のほとんどの時間、笑顔で優しく子どもたちに接する彼女。あわてず丁寧に子どもたちに伝える姿は、すごく参考になった。障害を持った子どもたちにもわかりやすく興味を持ってもらえるよう、たくさんの工夫がその授業のいたるところでなされていて、こちらも楽しくなった。

 午後の授業はビーズ細工。この学校では、ビーズ細工を作って、それを売っている。それを少しでもその学校の経費や運営費にまわしている。それでも子どもたちが熱心に黙々と作る姿はすごく感動的だ。真剣なまなざしで、細い糸にビーズを通していく。もちろん適当にビーズを通していくのでなく、バランスや色の規則などを考えながら、作業をする。すごく時間のかかる大変な作業だが、子どもたちの出来上がったときの笑顔をみると、子どもたちも楽しく作業しているのではと感じる。

 さてケニア東部旅行の最終日は、環境教育を推進している学校を訪れた。この学校の環境に対する意識は日本の学校以上だ。敷地内に落ちている枯れ葉や使った後の紙や新聞紙を、細かくしつぶして炭を作ったり、紙細工を作ったり。また雨が降ったあとの水は、巨大なタンクにためることができるように工夫をしていたし、ものすごく環境に優しい学校であった。

 そんなこんなでケニア東部旅行は終了。また新たなケニアの一面が見えた旅行だった。