2010年2月27日土曜日

ケニア旅行記 モンバサ①


 ケニア第二の都市モンバサ。海岸沿いに位置するこの町にはイスラム教が色濃く残り、同じケニアとは思えないような風景が広がる。建物もイスラム様式のものが多く、ケニア人女性でブイブイ(黒の服で、目以外の肌を隠す服)を着ている人も多い。

 前日ボイからモンバサに来た私はこの日、まず訪れたのは先輩隊員なおさん(コンピュータ技術)が活動するM.T.T.I(Mombasa Technology Training Institute)だ。かなり大きな学校で、コンピュータの数も数百台とケニアの技術専門学校の中では群を抜いている。授業のない生徒は廊下に机を出し自習。日本の大学でもあまり見ることができない、そんな熱心な光景がここでは見ることができる。

 そしてお腹もすいたところで、コースト料理で有名なTurbushレストランに行く。コースト料理として有名なビリヤニ(炒めたごはんにピリ辛ソースが乗っているもの)を食べる。コースト特有の香辛料が使われていて、これがまたうまい。そして暑いモンバサだからこそ、冷たいソーダが最高にうまいんです。

 さて、次に向かったのがリコニ更生院。ゲタスル更生院で3カ月過ごしたのち、国内6か所の更生院に行く中の一つ。今回の旅行の目的の一つとして、ゲタスルで出会った子どもたちに最後の挨拶をするというものもある。その子どもたちがどんなに成長をしているか、これが楽しみの一つでもあった。

 治安が良くないリコニを一人で行動するのは、いささか勇気がいることであったが、なんとかリコニ更生院に到着。私の姿を見るなり子どもたちはびっくりして笑顔になる。

 “ Ken-san!!” 「ケンさん!」

 そう言って、走って近寄ってくる。温かいというか、むしろ暑苦しいにもほどがある子どもたちと握手をしたり、頭をなでたりして久しぶりの再会をする。顔が妙に大人っぽくなっている子ども、声変わりをした子ども、髪やひげが生えてきた子ども、小さかった身長が私より高くなっている子ども、それぞれの子の成長を感じながら、妙にうれしさと寂しさがこみ上げてくる。こういう場面は、少々苦手だ。涙もろくなる。

 “ Baada ya Mweji moja, nitarudi Japan.” 「一ヶ月後、日本に帰るんだ。」

 そうみんなに言って、最後の挨拶をする。子どもたちは思ったよりも寂しそうな表情もなく、あっけらかんとしている。少し拍子抜けだ・・・。そして手をつないで、リコニ更生院の中を案内してもらい、一緒におしゃべり。職業訓練で家具作りとしてイスを作っている子どもやパン作りとして調理をしている子どもの姿も見えた。ボーイズが少したくましく見えた。また手をつないで運動場まで散歩。

 この子どもたちの手が、俺の手にはおさまらないくらい大きくなるのかなあ。そんな子どもたちの明るい未来を切り開く手をぎゅっと握りしめ、溢れだそうとする涙をぐっと我慢した。

 また会おうな、リコニボーイズ。

 残り22日。

2010年2月17日水曜日

ケニア旅行記 ボイ


 2つ目の目的地はボイ。初めてのヒッチハイクでトラックの運ちゃんに乗せてもらってボイに着く。東ツァボ国立公園の入り口でもあるこの町は、観光客も多く、交通がすごく発展している。お店の数も多くあり、かなり大きな町だ。この町でも同期の隊員が活動している。同い年のにっしーである。彼はコンピュータ技術という職種で、Coast Institute of Technology(コースト科学専門学校)でコンピュータを教えている隊員だ。

 夕方に彼の活動の一環である教員へのコンピュータのブラインドタッチ講座を見学する。ケニアの先生たちは真剣なまなざしでキーボードを打つ。私も挑戦してみたが、すぐに集中力がなくなり席をたってしまった。ケニア人とは思えないほどの集中力。しかし、このように彼がいなくなっても先生たちがコンピュータを上手に使えることができるようにと考えたこの講座は、すごく大きな力になっていくんだろうなあと感じた。

 この学校にはコンピュータ科以外の学科もたくさんある。電気科、木工科、家政科、調理科など。それぞれの授業や教室を見学し、生徒の真面目な姿に驚いた。また休み時間も外に机を出し、自習をしている姿が印象的だった。

 夜はボイのタウンに出て、彼の行きつけのお店に行った。冷たいビールに豚と鶏の炭火焼(Nyama Choma)。これが最高で、料理が出てきてからは二人の会話はストップして肉にがっついていました。ケニア料理の中でも、このニャマチョマ(肉の炭火焼)は大好物です。

 次の朝、コンピュータ科の生徒のためのプログラミングの授業を見学する。一人ひとりに熱心に教える姿に刺激を受けた。生徒たちもまちがいを繰り返しては、少しずつ正しい方向へと導かれていく。ケニア人のペースを大切にしつつ、ひたむきに教える彼の姿がすごくかっこよかった。このように同期の活動を見学するのは、かなり刺激になる。他の隊員の活動を見るたびにいつも考えさせられ、自分の活動に取り入れていく。これが隊員間の良さでもあるんだろうなあ。

 そして次なる目的地モンバサへと向かう。

ケニア旅行記 ムティトアンディ


 ケニアのいろいろな場所を見たり、いろいろな人に出会う。ケニアに来る前から、活動の他にたくさんのケニアを見てみたいと思っていた。そして2月8日から14日までの1週間、ケニア東部の旅行へ出かけた。

 はじめの行先はムティトアンディ。同期の隊員れんちゃんが活動している任地である。彼は西ツァボ国立公園で環境教育の隊員として活動している。その活動先を見学しに行った。ナイロビからバスで4時間。ちょうどナイロビとケニア第2の海岸沿いの都市モンバサの中間地点にあるこの町は、トラックや大型バスの停留地点でもある。そのため、まわりには食堂や露店が多くある。

 ムティトについて、れんちゃんと合流。近くのローカルなお店で昼食を食べ、彼の活動先を見学する。西ツァボ国立公園のゲートを入って、すぐのところに位置する教育センター。そこが彼の活動場所だ。ラミネーターできれいに作った掲示物を見ながら、ゆっくり見学。他の職種の隊員の活動の様子を見るのは、かなり新鮮で新しい発見がたくさんあるから好きだ。

 夕方から彼の活動の一環「クリーンアップ活動」の協力のお願いに近くの小学校2校を訪れた。このようにコミュニティに出て現地のケニア人と仕事の話をすることがない私にとって、なにか不思議な感じがした。私のような更生院(学校)隊員は、もともと対象となる子どもや生徒がいるのだが、環境教育や村落開発の隊員は対象作りから始まる。ここでも一つ、大きな発見があった。

 そしてれんちゃんの家に帰って、そこから西ツァボ国立公園の眺めを見る。夕方に照らされた眺めは本当にアフリカの大地を感じることができ大感動した。そして夕食を食べ、就寝。

 次の日、れんちゃんの好意で西ツァボ国立公園のゲームサファリをする。この日は大変天気がよく、そこからアフリカ最高峰のキリマンジャロがきれいに見えた。そして丘、岩山、火山岩地、「ムジマ・スプリングス」と呼ばれる湧水などを見ることができ、改めて自然の素晴らしさを味わうことができた。 

 そして次の目的地ボイへと向かった

2010年2月16日火曜日

2月6日 命のつながり

 「人の死」について、このブログで書いたことはない。むしろ書かないようにしていたといってもいいだろう。この2年間で何回身近な人の死を見てきただろう。ゲタスル更生院の子どもの死、同僚の死など。けど、今回の出来事で書こうと思った。

 この日、同僚の母が亡くなり、隣町のマチャコスまでお葬式に行った。そこには200名近い親族や近所の人などがたくさん来ていた。昼過ぎに着き、お昼ごはんをいただく。お葬式の前に、来た人にもてなしの気持ちを込めて昼ごはんをふるまう。故人が生前食べていた普段の食事を、最後の食事としていただく。

 そして食事の後、外の広場にイスや机などが設置された会場に行く。その小さな机には故人の入った棺桶をのせる。そして他の人たちはまわりにあるイスや地面に座り、故人との最期の時間を過ごす。血筋の濃い親族から棺桶の後ろにたって記念撮影。棺桶と一緒に写真をとる。そしてそのあとは、関係の深かったものからのメッセージ、そして牧師さんのお話(日本でいうお経のようなもの)があり、最後に棺桶を2メートルほど掘った地面の中に入れる。そして最後のお別れとして一人ひとりが、手に砂持ち、それを棺桶にかける。日本の火葬とちがい、土葬が主である。

 同僚の母は86歳まで長生きしたらしい。ケニアの平均寿命を考えると、かなり長生きをした。彼女はたくさんの子ども、孫、ひ孫に見守られた。彼女がいたから、たくさんの家族ができた。そんなとき、ふと「命のつながり」を感じた。

 これを逆に考えてみることもできる。私には両親がいて、4人の祖父母がいて、8人の曾祖父母がいて、その上には16人、またその上には32人、64人、128人・・・。というように私の命は、たくさんの人の「命のつながり」によって受け継がれている。その中のたった一人でも欠けていたら、私は存在していない。だから命って尊いものだし、素晴らしいものなんだって気づく。

 人間だけではない。動物だって、植物だってきっと「命のつながり」があるからこそ、今生きているんだと思う。だからこそ、どんな生物でも自分の死が来るまで、その生涯をまっとうしようと思うのだ。

 ケニアではどんなに貧しくても、どんなに苦しくてもその日その日を大切にしている。一日中木の下でおしゃべりをしたり、家の周りで子どもと遊んだり、親戚同士で助け合いごはんを分け合ったり。将来のことや未来のことを考えている人はごく一部で、一日一日を楽しく生きている。だからこそ、身近にある死も柔軟に受け入れてるんだろう。

 そう感じた、「命のつながり」。私にも今後、「命のつながり」となる子どもができ、そして孫ができ、ひ孫ができ、どんどん「命のつながり」が広がっていく。そう思うと、すごく自分の存在も大切に思えてくる。周りの人のことも大切に思えてくる。だからちょっと考えてみてください、「命のつながり」というものを。

 残り34日。

2010年2月5日金曜日

2月4日 や、やせた!?

 「太ったね。」
 「お腹の肉、すごいね。」

 10月にケニアに訪れた妻の衝撃的な言葉。わかっていたことだが、改めて言われたことに茫然とした。妻に少しでもいい思い出を作ってほしいと思い、素敵なホテルやロッジに宿泊し、毎日の朝昼晩と3食のバイキングを食べたのがいけなかった。

 人生で一番太った時期といっても過言ではないくらい太った。おそらく75キロを超えていたのでは・・・。結婚式前後の体重は63キロ。10キロ以上の差だ。そして今年に入って、プチメタボを解消すべく、あの若かりし頃の体型に戻すべく、新たなチャレンジが始まった。それは毎日のストレッチとジョギングだ。起床時、昼休み、就寝前の3回、ゆっくり約20分のストレッチ。硬くなった体を柔らかくすることから始める。初めは体を倒しても、お腹の肉が邪魔をしてまったく前に倒れない。思った以上にお腹の肉が強敵になっていることにこのとき初めて気づく。

 そして始めたジョギング。運動場周り約300メートルほどかな。1周走って、終了。体の肉は体力まで奪ってしまったようだ。息切れがしてそれ以上続けることができず、我慢嫌いな私は、毎日運動場1周(約2分)のジョギングをする。

 完全な肥満としてスタートした2010年。あれから1カ月してどのように変わったのだろう??

 現在ストレッチは一番柔らかったときと同じほど、柔らかくなっている。お腹の肉が邪魔で前に倒れることができないということはまったくなくなった。そしてジョギング、今現在、毎日運動場10周(約3キロ)を走っている。それに付け加え縄跳び20分間。あと1カ月したら、どんなになっているんだろう。ふふふ、見とけよ。帰国したら、

 「かっこいい❤」

 って言われるよう、もうちょいがんばります。ってか、もちろん妻にいってもらえるように。この点を間違えると、うちの家庭が崩壊するんで。

 残り45日。

2010年2月4日木曜日

2月3日 ゲタスル更生院の給食② 昼食、夕食

 一日30品目の食品を食べるのが良い。
 と日本では言われるが、ゲタスル更生院では言えないかな。1日多くて4、5品目しか摂取できない子どもたちだが、ごはんが安心して食べられるだけでも幸せなことである。たとえ昼食と夕食がまったく同じメニューでも・・・。

 ここゲタスル更生院では大きな鍋に約100人分のごはんを作る。それも2食分。つまり昼食分と夕食分だ。昼食で半分を出し、夕食でもう半分を出す。そのため、彼らの食べる食品目は4、5品目になるということだ。

 さて彼らの給食として、一番よく出るのは「ギゼリ」(Githeri)と「ウガリ」(Ugali)だ。ギゼリはとうもろこし(甘いものでなく、味がほとんどない白いとうもろこし)と豆を塩で煮込んだものである。最近ではこれにじゃがいもやキャベツが入るようになり、少しグレードアップしている。子どもたちの中には豆をすべて食べてそのあとにトウモロコシを食べるなど、いろいろな食べ方をしているものもいる。量が少ないと、それをゆっくり噛みしめながら食べる。少しでもお腹がいっぱいになる方法を知っているのだろう。

 次にウガリ。ウガリはここ東アフリカのもっともポピュラーな主食といってもいい。トウモロコシの粉を湯でよくこねて蒸したものである。味はほとんどないが、おかずと一緒に食べるとけっこうやみつきになる。私はこのウガリが大好きだ。ゲタスル更生院では、ウガリを作る鍋とおかずを作る鍋二つを使う。おかずはマハラグェMahargweと呼ばれると呼ばれる赤豆の似たものだ。これにキャベツが入る。毎日この赤豆は給食にでる。ギゼリのときもウガリのときも。

 1週間に1回はお米(Mchele)の日だ。これもマハラグェと一緒に食べる。もしくはデングと呼ばれる小さな緑色の豆と一緒に。しかし子どもたちにお米はあまり人気がない。なんでもお米はすぐにお腹がすくらしい。なので、寝る前にいつもお腹がすいて困るということだ。また現在は週に1回肉の日がある。牛肉を約50グラムずつ切り、お湯で茹でた茹で肉。子どものテンションが上がる。また2週間に1回フルーツの日がある。パイナップルやオレンジ、マンゴーなどを子どもは食べることができる。

 トウモロコシの収穫の時期になると、子どもたちにはトウモロコシが配られる。そして炭でじっくり焼いた、焼きトウモロコシを作る。この出来たてがかなりウマい。私の大好物だ。一度にトウモロコシ3本は食べることができる。それほどウマい。

 ところで、アフリカの子どもたちは給食や食べ物を残さないとよく言われるが、実際のところは・・・本当に残さない。小さい子が食べきれなかったら大きい子がそれを食べる。食べ物を捨てるというような光景をここゲタスル更生院で見たことがない。この点に関しては、見ていて気持ちいいし、気分がいい。しかし中には、虫歯が痛くてギゼリが食べられないという弱っちいやつ、デング豆が食べられない、ウジが飲めないといった子もいる。残すことはないが、好き嫌いはある。私もらっきょを食べることができないし・・・。

 というのがゲタスル更生院の給食です。日本の給食と比べると種類はそんなに多くないけど、子どもたちにとっては安心してお腹いっぱい食べることができる給食は最高の楽しみなんだろうなあ。そんな子どもたちがごはんを食べている姿を見ることが私の幸せな時間。

 残り46日。

2010年2月3日水曜日

2月2日 ゲタスル更生院の給食① 朝食

 子どもたちが何よりも楽しみの時間。それがごはんの時間だ。今日からゲタスル更生院で子どもたちが食べるごはん(給食)を紹介します。

 まず毎日の朝ごはんとして、飲むのがウジUji。トウモロコシのお粥のようなものである。これに砂糖を入れて少し甘くする。熱々のウジを少しずつ飲む。大きなコップにいっぱいに入ったウジだが、子どもたちにとっては全く足りないようだ。普段はこのコップ一杯のウジが朝食である。

 祝日になると、朝食は豪華になる。クリスマスや正月のような大きな祝日には、前日にマンダージ(揚げパン)が作られる。砂糖をかけない揚げパンのような感じだが、ほんのり甘いこの食べ物は子どもたちの大好物だ。これと一緒に飲むチャイ(ミルクティー)がまたうまい。ケニアをはじめ、東アフリカの中ではもっともポピュラーな飲み物である。ケニア人はこれにたっぷりの砂糖を入れる。私のお腹の脂肪の大半はこのチャイからきていると言っても過言ではない。

 また普通の祝日には食パンが配られる。これ一人スライス4枚配られる。これもやっぱり合うのがチャイ。日本ではジャムやマーガリンをつけたりするが、子どもたちにはそのようなものはない。食パンをそのまま食べる。食パンを口に含んでは、チャイを飲む。この組み合わせが何ともいえず、うまいのである。私の朝食は、基本食パンとチャイである。まあ私はそれにハチミツをたっぷりつけるのだが・・・。だから太るのか・・・!?

 というようなものが、ここゲタスル更生院の朝食。次回は昼食と夕食を紹介します。

 残り47日。

2010年2月2日火曜日

2月1日 不思議な感覚

 突然、不思議な感覚になった。それはオフィスの横の掲示物を眺めていたとき。

 私が帰るときには、自分の作った手作りの作品や掲示物、すべてを処分して帰る予定だ。というのも、ここゲタスル更生院には後任の隊員がやってくる。その人に前任の私がやってきたことを引き継いでもらいたいという気持ちはさらさらない。むしろ何もない状態で、自分の色を出して活動してほしいと思うからだ。

 そのためすべての作品や掲示物などはあと1カ月半で処分することにしている。この感覚はちょうど年度末の日本の中学校の学級を持っていたときと似ている。修了式後、卒業式後、生徒がいなくなった教室で一人掲示物や作品をとっていく、そんな感覚に似た感じだ。

 日本ではそろそろ年度末。終わりが見えてくる時期である。私の活動も終わりが見えてきて、ここケニアでの教育活動も終わりを迎えようとしている。今まで作ってきたものも、育てたものも形としてではなく、この約2年間で接してきた子どもたちの内面に残ってほしいと感じている。それが自分がこのゲタスル更生院にいた証になると思う。

 当たり前のことができることって、実はすごく温かくて、かけがえのないものだと思う。そばに子どもがいる、一緒に話ができる、一緒に笑える、ケニアだからとか協力隊だとか関係ない。日本にいる人だって、世界中にいる人だって、実は当たり前に生活できることの幸せを感じているはずだ。その当たり前の生活がもう少しでできなくなる、切ない気持ちと実感がないのとよくわからない感じだ。

 初めて自分が3年間受け持った生徒が卒業する前日の給食時間のことを思い出す。1年生のときにまったく準備できなかった生徒が、てきぱきと給食の準備をする。いつも一緒に食べていた給食、それも明日から食べることができない。そう思うと涙がこぼれた。

 「先生、卒業式まで涙はとっておいてよ。」

 そう言って生徒が笑って、なぐさめてくれたのを思い出した。その時から当たり前のこと、当たり前の日常が実は一番かけがえのないものだと考え始めた。再び同じような不思議な感覚を感じたこの日。その感覚が日に日に大きくなっていくんだろうなあと思う。


残り48日。