2009年5月29日金曜日

5月25日 ケニャイチロー ナンパされる

 一言ことわっておくが、「ナンパされた」のであって「ナンパした」のではない。この点を間違うと、うちの家庭が崩壊する・・・。妻方のお義母さんもこのブログを見ているし、日本で大騒ぎになるので間違わないでほしい。「ナンパされた」のだ。

 週末出勤の振り替えとして昼からお休み。久々にタウンに出ようとして意気揚々とマタツ(乗合バス)に乗り込む。しばらくしてNairobi University(ナイロビ大学)に到着。そこで一人のギャル(ギャルって古いですか・・・)が乗り込んでくる。空いてる席は俺の隣だけで、そこに座る。しばらくマタツは走り、そのギャルが話しかけてくる。耳元で囁くような小さな声で。

 “・・・・・・・・・・・・・・・” 「・・・・・・・・・・・」
 “ Ati!?” 「えっ!?」
 “・・・・・・・・・a student?” 「・・・・生徒さん?」
 “Ninafanya kaji katika Lower-Kabete.” 「ローワーカベテで働いてるんです。」

 上目づかいで話しかけてくるギャルは明らかに今まで出会った女性とはちがうオーラがある。声を小さくして近づけさせる作戦だ。そしてマタツは終点に近づく。

 “Unilipie nauli, tafathali.” 「私の分も払って、お願い❤」
 “Ati!?” 「えっ!?」

 本性を現しやがった!これが目的で近づいてきたんだ・・・。金。同僚やスワヒリ語の先生からケニア人女性のことは聞いていたが、はじめてお金目当てで近づいてこられた。ここが既婚者の腕の見せ所。

 “Sitaki. Ulipe!” 「いやだよ、自分で払えよ。」

 はい、終了。しぶしぶお金を出すギャルに見事に勝利。色気に惑わせれない自分が妙に誇らしかった。昔は惑わされてたかも・・・。やっぱりこれは妻への愛情(恐怖・・・)の大きさかな。それでも久々にモテたので、ついついにやけてしまった。これからも外国人相手に近づいてくるケニア女性には負けないと確信できた名勝負だった。

2009年5月28日木曜日

5月20日③ 同期の手作りピザ

 自慢じゃないが、物ごころついたときからピザには目がない。小さい頃おばちゃんの友達が働いているピザ屋さんに連れて行ってもらって、大好きになった。少年時代は高価なピザを食べる機会があまりなく、ピザには憧れのようなものがあった。社会人になり、イタリアンに行ってはパスタでなくピザを頼む。一人暮らしのアパートの冷凍庫の中にも常に冷凍ピザが入っていた。近くのスーパーで冷凍食品が半額になっているときは必ず行って、冷凍ピザを大量に購入していたのが懐かしい。その冷凍ピザを食べながら、ビールを飲むことが最高のぜいたくだったなあ。

 そんなピザをここケニアで食べることができるなんて思ってもみなかった。この日の夜は同期のマッキーの家で晩餐会。手作りのピザが出てきてテンションは最高潮。それにはやっぱりビールでしょう。おそらく一人で2枚分は食べたのではないかというほど、ピザを満喫しました。ひき肉にトマト、そしてピーマン。このオーソドックスが一番うまいんだよな。

 将来はでっかいオーブン買って、毎週のようにピザを作ってもらいたいわ。ああビール飲みてえ。

2009年5月27日水曜日

5月20日② シモラテワ少年院

 そして次に向かったのはケニア国内2か所しかない少年院の一つ、シモラテワ少年院。更生院と少年院、どのような違いがあるんだろう?同僚のフィリップと少年院の門に到着。・・・塀が高い、また門にきちんと鍵がしてある。この時点で全然ちがう。少しビビりながら、門をたたく。

 “Hodi!” 「すいませーん」

 そう言うと、銃を持った身長推定190センチの大男がやってくる。警察だ。ここでビビったらダメだと感じたので、名刺を渡し名前と配属先を名乗る。そうすると、意外と快く門を開けてくれ、笑顔で迎えてくれる。ビビって損した。

 そしてその人の上司がやってきて、その人のもとに通される。明らかに偉い人だということがわかる。しかしその人すごく笑顔で迎えてくれ、その後少年院を案内してくれた。ちょうどスポーツの時間が始まるということでそれを見学。

 ・・・でかい。みんなうちの更生院の子たちよりでかい。それも迫力がある。さすがにこの子たちにはまったくビビらなかったが、雰囲気や態度など少しちがっていた。現在この少年院の在籍している子どもたちは282人。うちの約3倍。人数から言っても全然ちがう。そして図書館やコンピュータルームなどがあり、教室もあった。授業はスタンダード7,8(中学1,2年生)だけで、他はない。そして家具作りや金属製品づくりなどの職業教育も充実していた。

 もちろん、日常の仕事もしている。薪を割ったり、ごはんを作ったり、掃除をしたり。この部分は更生院とは変わらない。そして驚いたこと、それは子どもたちの背景だ。更生院とほぼ変わらなかった。盗み、傷害、薬物や非行などゲタスルの子の背景とほとんど同じであった。正直どう違いがあるのか、まったくわからなかった。

 一つ違うこと、それは無邪気さがないこと。あいさつをしてくれる子ども、笑顔で迎えてくれる子など一人もいなかった。ゲタスルでは無邪気な子もたくさんいる。この少年院の子どもたちは、私だけでなく同僚のフィリップにも無愛想だった。

 そして以前ゲタスルにいた子もこの少年院にいることがわかった。更生院から送られてくる子も少なくないという、ここシモラテワ少年院。アットホームなゲタスルとはちがって、すべてがきちんとしている印象を受けた。更生院と少年院の違いを少し感じた訪問だった。

2009年5月26日火曜日

5月20日① リコニ更生院


 次の日の朝、同僚のフィリップとリコニ島に行くフェリー乗り場で待ち合わせ。そして、5分間のフェリーでの船旅を満喫し、リコニの町へ。そこでマタツに乗って約1分後、女性の悲鳴が聞こえる。

 “Ahhhhhhhh!!” 「あああああああ!!」

 泥棒だ。力づくで女性のカバンをひったくって一目散に逃げる。周りの人たちも大声で何か言っている。現場は一時騒然となり、私自身も興奮と怖さを抑えきれずドキドキしていた。そして、そのままマタツはリコニ更生院の前に到着。少し歩いてリコニ更生院に着くと、子どもたちは授業の最中。気付かれないように教室をのぞくと、予期せぬ訪問者に子どもたちも大興奮。俺の顔を見るなり、覚えてる限りの日本語のあいさつや歌で歓迎してくれた。

 「おやすみなさい」
 「ある日、森の中マサイに・・・♪」


 どう考えてもまちがった歓迎の言葉や歌だろうと心の中で突っ込みながら、俺の顔は笑顔に。しかし明らかに授業妨害になっている私は一時教室を離れ、更生院見学に。広い敷地に教室やダイニング、子どもたちの寮など大きな建物がたくさんある。そしてモンバサやリコニはイスラム教の子どもたちが多いので、敷地内にモスクまである。そして以前いたJICAボランティアが教えていたビーズ細工も見せてもらった。このビーズ細工はリコニ更生院の職業教育の一つとなっていて、今でも盛んに行われていた。このビーズ細工を職業として仕事についている卒業生もいるぐらいだ。

 そして久々に会うリコニの子どもたちとたくさん話をして、リコニ更生院をあとにした。正直安心した。それは授業がきちんとされていたこと、そして職業教育のビーズ細工も行われていたことだ。授業と職業教育、更生院にとってこの二つは大きな柱だ。子どもたちの未来のために更生院ができること、それはまずこの二つである。再び悪い色に染まらよう、更生院の役割は大きい。

2009年5月24日日曜日

5月19日 なんで・・・?

 初めての長期出張、2泊3日のモンバサへの出張である。子どもたちをモンバサにあるリコニ更生院に連れていくため、大型バスで早朝から出発する。バスに揺られること、約10時間、目的地となるモンバサに到着。私は同期の家に泊めてもらうようにしていたため、この日はモンバサのタウンに降りて、同期を待った。そして久々に同期と会って、マタツを探そうと歩いていた、そのときある男の子が走ってやってきて、

 “ ・・・Pesa.” 「・・・お金」

 と言って、手を差し出してきた。いつものことだから、驚きもしなかったが、男の子の顔を見た瞬間、衝撃が走った。

 “ Aa, ulikuwa Getathuru!!?” 「あっ、お前ゲタスルにいたろ!!?」

 なんと、ゲタスル更生院で私が英語や数学を教えていた男の子がそこに立っていた。そして私にお金を求めていたのだ。その子は俺のことに気づくと、その瞬間走って逃げて行った。何が何だか分からず気持ちの整理もつかないまま、また歩き出す。そうすると逃げた男の子がやってきた。申し訳なさそうに、しかしなんだか嬉しそうに。

 “ Umenikumbuka? Mini nimekukumbuka.” 「俺のこと覚えてるか。俺は覚えてるぞ。」
 “ ・・・Ken.” 「・・・ケン。」


 なんとか絞り出した声は少し震えていた。

 “ Unaitwa nani? Nimesahau jina lako.” 「名前なんだったっけ。忘れちゃったよ。」
 “ ・・・Vincent.” 「・・・ヴィンセント。」


 そうヴィンセントだ。人をからかうのが好きで、毎日のように友達とケンカしていたやつ。いつも怒ってたやつだ。赴任当初に1か月ほど教えていただけだが。そんな彼が今モンバサの町で、ストリートボーイになっていた。ゲタスル更生院からリコニ更生院へ移動し、そして脱走。どこにも行くお金がなく、ストリートボーイに。

 なんで・・・?ゲタスル更生院の職員である私にとっては、悲しすぎる現実だった。

 “ Urudi Getathuru. Ninakufundisha tena.” 
 「ゲタスルに帰ってこいよ、また教えてやるから。」
 “・・・Eh.” 「・・・うん。」


 そう言って、少しほほ笑んだ。うれしかったのか、ホッと安心したのか、確かに彼はほんの少し笑顔を見せてくれた。その笑顔をみたとき、ゲタスルにいたときの無邪気な彼を思い出した。そして彼はまた夜のモンバサへと戻って行った。

 やり切れない思いとショックな思いと、自分は何もできない無力さと、いろいろなものが混ざり合って、その夜何杯もビールを飲んだ。

2009年5月19日火曜日

5月15日 ゴミ箱を作る

 今週の職員会議で、マネージャーが言った。

 “ Shule lazima ikuwe safi kabisa!! Sitaki takataka ya nje.”
 「学校はきれいじゃないといけないんだ。外に落ちてあるゴミは嫌いだ。」

 うちのゲタスル更生院のマネージャーは日本人のように細かくしっかりしている。また私のよき理解者で、私の提案するイベントや学校運営に反対したことが一度もない。すべて受け入れてくれて、失敗するとそこでケニアの実情を踏まえていろいろ教えてくれる。このマネージャーがいるから、仕事が本当にやりやすい。

 ゴミをあちらこちらに捨てない。もっともな意見だ。うちの更生院では普段から、ゴミをゴミ箱に捨てるよう子どもたちに言っている。ゴミを拾うことを強調するのでなく、ゴミを出さない・捨てないということを毎日のように言っている。しかしゲタスル更生院の子どもたちは毎日新しいメンバーが入ってくるので、なかなか伝わらない。

 そこで今回考えたのは、ゴミ箱を作ることだ。もちろんゴミ箱を買うお金はないので、あるもので作る。今回使用したのは、私が飲み水として買って、余った5リットルのペットボトルだ。このペットボトルをゴミ箱になるよう、はさみで切る。そんな簡単なことだ。そして丁寧にピカピカになるまで洗い、すべての教室や部屋に置いた。

 そして次の日の朝礼の時間、出来上がったばかりのゴミ箱を見せながら、

 “ Shule lazima ikuwa safi. Kuanzia leo, Utupe takataka ndani ya hii chupa!”
 「学校はきれいじゃないといけないんだ。今日からゴミはこの中に捨てるように!」


 といった。そうすると早速効果が。授業時間、今まで鉛筆を削ってそのゴミをそのままに床に捨てていたのだが、ゴミ箱の上で鉛筆を削ってゴミ箱に入れるようになった。紙くずを教室に捨てず、ゴミ箱に捨てるようになった。

 当り前のことかもしれないが、ここケニア・ゲタスル更生院の子どもたちを考えるとすごい進歩だ。日本の学校では教室すべてにゴミ箱をおくことは当たり前だが、ここケニアでは当たり前ではない。当たり前のことを当たり前にできる、これがゲタスルの子どもたちにとって一番大事。そんなゴミをゴミ箱にいれる様子を見ながら、じーんとうれしさが心に響く。

2009年5月16日土曜日

ケニャイチロー事件簿 ケニャイチローバラバラ事件

 大事件発生。悪質極まりない事件がこのゲタスルで起きる。この衝撃写真・・・。なんと壁紙のケニャイチローの顔がやぶられたのだ。あまりにもひどい犯行に先生方も声が出ず。この更生院では毎日のように事件は起きてるのだが、こんな陰湿(いんしつ)な事件は初めてだ。ボランティアティーチャーのカフラが突然私のもとにやってくる。

 “ Ken, ○○□□××・・・” 「ケン、○○□□××・・・。」

 あせっていて何を言っているのかさっぱりわからない。もう少しゆっくり話せよと思いながら一緒に職員室の前へ。この職員室の前のドアには私が手作りで作成したケニャイチローの顔と日本語紹介の紙が貼ってあった。しかしそれが見るも無残な姿でやぶられていた。

 もちろん次の日の朝礼の一番の話題がこのバラバラ事件のこと。ソーシャルワーカー・チルドレンズオフィサーそしてマネージャー、3人もの人がこの事件に触れ子どもたちに話をしてくれた。

 「やった者は、正直にケンに言いなさい。ケンは許してくれるから。」

 そう言って、どの先生も締めくくってくれた。だが、もちろん犯人は出てこず。子どもを疑ってはいけないが、どう考えてもうちの子供以外考えられない。先生がするわけないし、この日はお客さんがいなかったし。うーん、とまあ迷宮入りしたわけです。

 けど思ったよりショックじゃなかった。日本で働いていたときも作った壁紙が壊されていたり、落書きがしてあったりといろいろあった。そういう抵抗ができていることも、5年間の教員生活のおかげだな。

「罪を憎んで、人を憎まず」。まさにこの言葉のように、子どもたちの一時の過ちを根に持つのでなく、これからの子どもの生活や態度を見ていくほうが大事である。このやぶられた私の顔はセロテープで修理して、また職員室の壁に貼った。まあわざとらしくマジックでやぶられた箇所に縫い目を描いたが。この傷がこれからも増えていくんだろうか・・・。この傷は勲章ではないけれど、子どもたちの心の傷の大きさと多さを物語っていると思う。